382



382




 研いだばかりのクナイを手に構え、目ぶたの際に刃を突きつける。このまま刃を押し進めたら、額がスッパリと気持ちよく切れるだろう。そんな緊張感にも、今はもう慣れた。目を瞑ってでもとまでは言わないが、歌を口ずさみながらでも仕上げられそうだ。頭を小さく振り、手ぐしで前髪を整える。そろそろはじめることにしよう。
「ちょっ!アンタ、何やってんの!」
「あ、」
 洗面所にいきなり飛び込んできたサクラの怒鳴り声に、ついついビクっと肩を揺らしてしまった結果、前髪は当初の予定より大幅にザックリと切ってしまった。
「何って、サクラちゃん……」
 ナルトは情けない顔をして振り返る。その目には涙がほんの少し浮かんでいた。




「だからオレ言ったじゃん、洗面台使うからって」
 短くなってしまった前髪によほど未練があるのだろう、恨めしそうな表情でそれをいじりながら、ナルトは文句の言葉を連ねる。サクラはといえば、洗濯機の縁に寄りかかった格好で顔をうつむけていた。床をつま先で蹴っているのは、気まずいからだろう。
「そりゃあ言ったけどさ、何してるかなんて知らないし……。刃物持って立ってるんだもの。変だって思うでしょ?」
「サイにもよく言ってるでしょ、想像力を働かせろって。オレが洗面台使うことなんてそうそうないんだからさ」
 ナルトは尚もぶちぶちと言いながら、クナイで毛先を整える。切りすぎてしまった場合の修復方法は、残念ながら覚えがない。どうしたものかと途方に暮れる。
「だから!すっごい真剣な顔でクナイ構えてるから驚いたの!」
「そりゃ真剣にもなるってばよ!髪切ってんだから!」
「……ごめんなさい」
 サクラのしおらしい謝罪に、追い討ちをかける気はすっかり失せた。確かにまあ、台所以外の場所でサクラが刃物を構えていたら、自分だって異様だと思うだろう。目的を告げなかった自分にも非はある。もういいよ、と言葉少なに告げて、この一件は流すことにした。いつまでも女々しいのは性に合わない。
「しっかしこれ、どうすっかなあ」
 斜めに切ってしまった箇所を整えた結果、前髪はよりいっそう短くなった。
「美容院に行く、とか?」
「ヤダ。オレ、そういうとこ行ったことねぇし」
 ガチガチに緊張して慣れない敬語を連発し、赤っ恥をかくのは目に見えている。想像するだけで気が重い。
「こういうの、いのが得意なのよね。よく切ったり結ったりしてもらったなあ」
「へえ、サクラちゃんは?」
「私は……ねぇ、ほら、」
「苦手なの?」
「やったことないだけです」
 むぅと口を尖らせるサクラをじっと見て、ナルトは考える。
 構えていたクナイの柄を差し出し、一言。
「じゃあやってみる?」
 膨れ面でそっぽを向いていたサクラだが、そんなナルトの問いかけに目を丸くする。
 だって、やってみたそうに見えたから。それだけの理由で身を任せるのは、たぶん自殺行為なのだろうなとナルトも思う。しかし、散髪がわりと得意なナルトにとってこういう機会はそうそうないだろうし、見るも無残な髪型になったら丸刈りにでもすればいい。任務の時は、いっそシノみたいにすっぽりフードを被ってしまうのもひとつの手だ。そう決めてしまうと、あとは気楽だった。髪はどうせまた伸びてくるのだし、命を取られるわけでもあるまい。
「今回はどのみち失敗だし。オレ、さっき言い過ぎたしさ、好きにやっちゃっていいよ」
「ほんとに!?」
 好奇心を隠しもせずその瞳に浮かべて、サクラは身を乗り出す。
 やっぱり、やってみたかったのか。ニッと笑うと、サクラに向けてクナイを放った。
「どうせなら縁側出よう。今日はよく晴れてるし」




 特大ゴミ袋の底に大きな穴を開けて、頭からすっぽりと被る。ゴミ袋の隙間から切った髪が入らないように、首元にタオルを丁寧に巻きつける。土の上に新聞紙を適当に広げたところへ椅子を置く。その椅子にもやっぱりゴミ袋をかけてナルトを座らせると、そこはもう即席の美容室だ。手に持つのが髪切り鋏ではなくクナイというのはご愛嬌。使い慣れた刃物の方が安心だというナルトの意見が採用された結果だった。
「今回は特別サービス。切ったあとで髪も洗ったげる」
「それならいっそ風呂を沸かして一緒に入りましょう」
「何それ。入るわけないでしょ。さて、はじめましょっか。いつもの長さでいいんだよね?」
 行き先はどうせ坊主だ。耳や首さえ切られなければ、いっそどうでもいい。
 そこまで思っていたナルトだが、きちんと散髪するつもりらしいサクラの問いかけに、言葉が詰まる。てっきり実験台にされるかと思っていたのに。
「え、長さ変えるの?」
「いや!うん!いつもの長さで!」
「何よ、寝てるかと思ったじゃない」
 後頭部を軽く小突かれて、ナルトは曖昧な笑みを返す。
「ちょっとずつ切っていけばいいのよね、よし」
 片手でさらさらと髪を整えられて、はーっとため息に近い声が出る。それに、任務の時みたいに真剣な目でじっと見られることなんて、なかなかない。こっちを見ないかな、と目だけでサクラに追うと、違うところを見てなさいとやっぱり軽く小突かれた。
 クナイが髪先を削る感覚が、頭の皮膚を伝う。自分の手と他人の手では、こうも違うのか。髪を触られるのが元々好きなだけに、その心地よさは格別だった。
 ざり、ざり、ざり。ぱら、ぱら、ぱら。
 この音を聞いてると、なんだか眠くなるのはなぜだろう。ちょっとずつ、ちょっとずつ。呪文のように聞こえてくるサクラの声に、瞼が重くなる。季節はもう春。暖かくなった風が庭木を小さく揺らし、一緒に眠気も運んでくる。うとうととまどろみを楽しみながら、ナルトは無防備に身を委ねた。




 さて、その翌日。口の悪い同期連中から「デコッパチ夫婦」とさんざん揶揄されたが、夫婦という言葉の響きにナルトは気を良くし、次からはサクラに切ってもらおうと勝手に決めた。
 二人の住まいに髪切り鋏が常備されるのは、もう少し先の話である。





※「382」=散髪ってことで。3月8日の午後2時ってことでもよし。考えるの面倒くさくなっちゃったんだよね……。



2010/03/05