午前三時、恋のはじまる音を聞く



午前三時、恋のはじまる音を聞く




 キバが失恋をした。
 まあ、それはいい。別の話だ。今直面すべき問題は、そこではない。
 午前三時、酒場の一角。掘りごたつになっているテーブルの向いでは、キバ、チョウジ、シカマルの三人が、雑魚寝をしている。そして、テーブルのこちら側。同じように寝こけているいのを挟んで、ナルトとサクラは気まずい沈黙をどうしたものかと持て余していた。




 話は、六時間ほど前にさかのぼる。
 馴染みの居酒屋にて、アカデミー時代からの腐れ縁四人組は、キバの失恋話を肴に飲んでいた。涙酒はいよいよ佳境というところで、仕事帰りのサクラといのが店の戸を開ける。「げっ」という呟きと共にいのは戸を閉めかけたが、キバが強引に二人を席に座らせた。聴衆は多いほうがいいらしい。席に着いた当初こそ渋い顔を見せていたサクラといのだったが、気兼ねのいらない酒の席は笑いに溢れ、思いがけず楽しい酒宴となった。
 失恋話から馬鹿話へと移り変わった頃、手洗い場に立ったサクラはその帰り道、店の廊下にだらしなくしゃがんでいるナルトの姿を見つけた。まさか、手洗い場に辿り着けないほど酔っ払ったのか。慌てて走り寄るサクラだが、ナルトはへにゃりと笑いかける。
「気づいたらサクラちゃん居なかったからさ、ここで待ってたんだってばよー」
 壁に手をついて立ち上がろうとするが、足元がふらつく。顔に締まりはなく、酔っ払っていることがすぐに知れた。
「二人でちょっとお出かけしましょー」
 さっとサクラの手を取ると、ナルトはご機嫌な様子で歩き出す。
「戻らないと、後であいつらに何言われるか……」
「いいから、いいから。久しぶりにさ、一緒に歩こう?」
「……まあ、いいけどさ」
 店を出てからも、ナルトはサクラの手をぎゅっと握ったまま、離そうとしない。人通りの多い時間帯ではあるし、場所は繁華街のど真ん中。人の目が気になり、振り解こうかと思案する。だが、隣を歩く顔があんまり幸せそうで、それはためらわれた。こういう表情につくづく弱い。
 笑うことを忘れてしまうほど、辛い時期があった。声をあげて泣く姿を、はじめて見た。あんなに胸の詰まる思いは、もう二度とご免だ。そっと握り返すと、ナルトの笑みはますます弾ける。
「あんた、随分飲んでるでしょ」
「いーのいーの!明日休みだし!サクラちゃん居るし!今日は無礼講だってばよ!」
 無礼講の使い方が、どうもおかしい。ナルトは年の割りに里内での注目が高く、目上の人間と杯を共にする機会が多い。よく聞く言葉を、意味を履き違えたまま使っているのだろう。後で正しい意味を教えておかねばなるまい。
「オレね、さっきから嬉しくて仕方ねぇの!」
 繋いだ手を軽く振って、ナルトが言う。
「あいつらと飲んでてもそりゃ楽しいし、腹痛くなるほど笑ったんだけどさ。こんな楽しいのに、なんでサクラちゃんがここにいねぇんだろってずーっと思ってたの。そしたらサクラちゃん、店に来たじゃん。もうオレ、びっくりしちゃってさ」
「あんたらが居るとは、思いもしなかったけどね」
「キバが止めてなかったら、オレが引き止めてたよ、絶対」
 繁華街を抜けて、二人は川原へと向かうことにした。その間もナルトは、嬉しいなあ、嬉しいなあ、と繰り返す。サクラはもう、繋いだ手を離そうとしない。秋の風が涼しい季節で、酒で火照った身体には心地がよい。ゆったりとした二人の歩調は、時間の流れを緩やかにする。ほろ酔いも手伝い、なんだかとてもいい気分だった。今は何もかもを忘れて、ここに留まっていたい。
 街灯は次第にまばらになり、雑踏が遠くなる。目的の川原まであともう少しというところで、それは起こった。
「あれ、ちょっ、うわ!」
 石造りの階段を降りている途中、間の抜けたナルトの声に続き、手を強く引かれる。酒が入っていたこともあり、サクラの反応は常よりはるかに遅い。とにかく転ぶまいと足掻いた結果、階段途中で二人は抱き合う格好となった。戸惑いや恥じらいが沸きあがる前に、互いの体温が伝わる。任務以外でこんなに近づくことは、まずない。だからこそ、ナルトのがっしりとした肩幅や、意外と分厚い胸板を直に感じ、サクラは驚いてしまった。サクラの中のナルトは、自分より背が小さく、細っこい身体にぶかぶかの派手な忍服を纏ったまま、止まっていたようだ。二年半の修行を終えて帰ってきた時にはだいぶ背が伸びていたし、徐々に視線が合わなくなっていることも気付いていた。それでも、今の今までナルトが一人前の男になっていたことを実感することはできなかったのだ。自分の背が縮んだのだろうかと思ってしまうぐらい、ナルトの身体は大きい。サクラの身体など、ナルトが腕を囲んでしまえば簡単に隠れてしまう。
 首筋に視線を感じて、窮屈な姿勢のまま、サクラはそろそろと顔を上げる。ナルトは呆けたように腕の中のサクラを見ていた。驚いている理由は、自分と同じだろうか。直に触れたことで、何かが変わったのだろうか。
 背中に感じていた体温が、不意に離れる。硝子細工に触れるかのような慎重さで、ナルトの指がサクラの頬を滑る。痺れるようなその感覚に、もう何も言わなくてもいいのだと悟った。二人は顔を近づけ、キスをした。そうすることが、自然だった。




 浮かれたような熱が消えたのは、日付が変わって二時間ほど経った頃だ。一番最初にキバが潰れ、家に帰るのがめんどくせぇとシカマルが寝転がる。チョウジが机に突っ伏すと、昨日まで遠征に出ていたいのが舟を漕ぎはじめる。そうして残されたのが、ナルトとサクラだ。
「忘れた方がいい?」
 サクラの声は、実に落ち着いていた。
「お酒の勢いってのはさ、ほら、ね。私もわかるからさ」
 隣ですうすうと寝ているいのを気にしつつ、ウーロン茶を口に運ぶ。
「こういうことって、他にもあんの?」
 ふてくされた声に、右へ顔を向ける。いの越しに見えるナルトの表情は硬く、怒っているようにも思えた。
「オレ以外と、したことあんの?」
「声、大きい」
 サクラの注意を受けてナルトは立ち上がると、サクラの手を引いて店の外へ出る。足が止まったのは、店を出てすぐの裏路地だ。繁華街とはいえ、午前三時。灯りがもれている店は数えるぐらいで、外を歩く人間はいない。今の時間でも変わらず盛り上がっている元気な連中はいないらしく、どこも静かなものだ。
「どこにも行かないから、手、離して」
 何が気に入らないのか、ナルトは手を離すどころか、ぐっとサクラの身体を引きつけた。数時間前はあれほど身近だった距離が、今は遠い。どうしてこうなってしまうのか。
 顔の上方に、影が差す。手のひらは頬に添えられ、今まさに唇が触れようという寸前。
「やだ!」
「なんで」
「なんでって、あんたねぇ!」
「全然わかんねぇ!なんでさっきは良くて、今はダメなんだってばよ!オレが酔ってたから?なんとなく流されただけ?」
「あのね、ナルト。酔っ払って記憶なくすことはないし、誰かとああいうことになることは、まずないわ。誓ってもいい。さっき私がお酒の勢いって言ったのは、」
 そこまで口にして、サクラは気づく。結局のところ、自分の気持ちから目を逸らし、有耶無耶にしてしまいたかったのだ。あれはお酒の勢いで、事故みたいなもの?そうじゃない。あの時、そうするのが自然だと思った。だから、そうした。それをなぜ素直に伝えないのだろう。私もわかるから、なんて物分りのいい風を装って、自分をごまかしているだけだ。
「じゃあさ、あれは何だったの?」
 その場の雰囲気に流されてキスをするなんて、絶対にない。好きな相手じゃなければ、絶対にできない。たとえ酔っていたとしてもだ。何故キスをしたのか?そう問われれば、答えは自ずと絞られる。好きだから、いいと思った。
「オレんこと、どう思ってんの?」
「好き……なんだと思う」
 ぐっと拳を握って叫びかけたナルトだったが、首を傾げながらの一言に制される。
「たぶん」
「何!その多分て!」
「しょうがないでしょ!さっきそうかもって思ったばっかなんだから!」
「さっき!オレら出会って何年経ってんだよ?いっぱい考える時間あったじゃん!少しくらい考えてくれててもいいじゃんか!」
「あーもーうるさい!わかった!こうしよう!」
 両腕をナルトの腰に回して抱きつくと、ナルトの口がぴたりと止まる。
「とりあえず今は、これくらいから」
「あの、さ」
「何?」
「背中に手、回してもいい?」
「ん」
 サクラの背に、そろそろと手が添えられる。とげとげしい空気はようやく解かれ、ナルトはサクラを抱いたまま、長い息を吐いた。
「あんたのこと、ちゃんと考えるから」
「うん」
「まだ戸惑ってるの。ごめん」
「うん」
「だから、もう少しだけ待って」
「うん」
「ちゃんと好きだって言うから」
「うん」
「あと、無礼講って言葉の意味、全然違うからね」
「うん……え?」






※こんな風にはじまる恋もあるってことで。




2009/09/10