十五. 「はあ、結構めんどくさいもんですねえ」 転属の命を火影より受けたいのは、情報部の一室で手続き関係の書類を片付けていた。積まれた書類の一つ一つに目を通すだけでも一苦労だというのに、さらに署名・捺印・書き物も加えると時間は倍以上かかる。この数だと、各担当事務に届けに行くだけでも、一日がかりだ。 「一時的な出向だと簡単なんだけどな。ま、諦めるこった」 のんびりと紫煙をくゆらせながら、トンボが気休めの声を掛ける。所詮は他人事、それもやむなし。タバコの煙がしきりにいのの前を横切るが、かつての恩師がチェーンスモーカーだったため、全く抵抗がない。銘柄が同じなこともあり、かえって安心するぐらいだ。 「トンボさん、休憩時間終わってません?」 「ん?俺はいいの。いのいちさんから監督係を仰せつかってるから。手続きで躓いたらなんでも聞けよ」 「あれ?トンボさんって確かずっと情報部ですよね。転属関係の書類なんてわかるんですか?」 「ほんとねえ、ははは」 暢気な笑い声に、扉のノック音が重なった。開いてんよー、というトンボの返事に二拍ほど遅れて扉が開く。 「失礼する」 最近聞かなくなったその声と、近づいてくる靴音に、いのは書類を繰る手を止めた。 「……シノ?」 戸惑ういのの手首を掴むと、シノはようやくトンボに目を向けた。 「すまないが、一時間ほど借りていいだろうか?」 「いきなり入ってきて何言ってんの!いいわけないでしょ?立て込んでるのよ!」 「あー、うん、別にいいけど帰りにタバコ買ってきてね。二箱。銘柄はその娘が知ってるから」 「ええっ!何それ、いいんですか!?さっきは監督係だって……」 「一時間で必ず戻る」 台風一過の部屋の中。トンボはタバコの灰をトントンと灰皿に落とすと、わっけえなー、と楽しげに呟いた。 情報部を離れた後、人気のない場所を見つけると、そこでようやくシノの足は止まった。 「こういう強引なやり方は好きじゃない」 シノの手を振り払い、掴まれていた手首をさすりながらいのが言う。 「こうでもしなければ、お前はオレに会おうとしないだろう」 「で、用件は何?」 「いつだったか、一緒に採った虫があるだろう。大事にしろと言われた」 「え?うん」 「カゴに入れて自室に置いてある。じきに番となり、子孫を増やすことだろう」 「はあ……」 「新しい甘味屋を見ると、つい中に入って味見をしてしまう」 「そうですか」 「新しくない甘味屋を見ても、何か新商品があるか気にしてしまう」 一体、オレは何を口走っているのだろうか。余計なことを嫌う性分なのだが、しょうもないことばかりが口からついて出る。言いたいことは心のそこかしこに沢山転がっているはずなのに、それを掴もうとするとその手をすり抜けてしまう。だから、言葉は厄介だ。どんなに精巧に形を模したとしても、一分も狂うことなく己の心を現すなんて、不可能だ。シノはその事実に、時々絶望する。誰よりも誠実な人間でありたいだけなのに、言葉がそれを拒絶する。どうせ伝えることが叶わないのなら、その労力は蟲へと捧げるべきなのだ。心の裡を曝け出し、意志を通い合わせる。その所業の、なんと簡単なことか。 「シノ」 子供を叱り飛ばすような声だった。もういい、言葉はやめだ。事は急を要する。今は立ち竦んでいる場合ではない。シノは手を引いて、コートの中にいのをおさめる。 「うわ、ちょっ!」 蟲の声は急激に縮まり、しんと静まる。羽音さえしない。本能的な恐怖がないと言ったら、嘘になる。すべてを擲って逃げ出してしまいたいとすら思う。しかし、布越しにぬくもりが伝わるにつれ、シノの両足はその場所から離れられなくなった。心にぽっかりと空いていた穴倉が、寸分の隙間なく埋まったのだ。あるべきものが、あるべきところに収まっていた。それはとても自然なことで、心地よく、愛しいとさえ思った。その心を、人は恋愛感情と名づけたのだろう。 「オレの気持ちを、お前が決めるな」 逃げるという選択肢を投げ出すと、それだけが残った。だから、その上澄みをそっと掬うように、口にした。 「お前は自分の主張だけを並べ、オレの気持ちを聞こうともしない。それは何故だ」 「もう覚悟を決めた人間にとって、シノの気持ちを聞くのは苦痛でしかないの」 いのの言い回しは、シノには少し難しかったらしい。その鈍さが、今のいのには無性に腹立たしかった。 「あのねえ、振られることがわかっているのに、『じゃあシノの気持ちは?』なんて尋ねる馬鹿がどこの世界に居るのよ!あの時、私のことをどう扱っていいかわからなかったでしょ。店でサングラスをはずそうとした時だって、ずっと怖がってた。変に緊張して、持て余してた……」 そんなシノを間近で見て、泣きたくなったのだ。こんな顔をさせてしまうのなら、離れたほうがいい。だからあの日、言葉を奪って突き放した。 「お前の近くにいると、蟲の声が聞こえなくなる。それが、お前を遠ざけた理由だ」 強張っていたいのの身体から、力が抜ける。 「二人で昆虫採集に出かけただろう。あの日から、ずっとそうだ」 「何よ、それ」 「春野に頼んで検査をしてもらったが、異常は見つからなかった。一族の書庫を漁ってみても、原因はわからない。山中には何も言わず、申し訳ないと思っている。情けないことだが、怖気づいた」 いつになく落ち込んだ声だった。しかし、それは誰だって遠ざけるだろう。自分の秘術が、特定の人間に接触することで効力を失うだなんて。そんなの、最悪の組み合わせだ。 「じゃあ、今でもその……蟲の声が聞こえないの?」 その問いかけにシノは答えることを窮したが、嘘をついても仕方がないとばかりに渋々頷く。 「そういうことだ」 「ええっ!ちょっとマジで!?それ致命的じゃない!すぐ離れよう、ね!」 そう言うなり、いのは両腕にありったけの力をこめてシノの胸板をぐいぐいと押す。他にもやりようはあるのだが、男女の話をしている今、忍術なんて無粋なものを持ち込みたくなかった。 「もー!私じゃなくてシノが困るのよ!はーなーれーてー!」 全力で押し返しているというのに、シノは微動だにしない。それどころか、逆にいのを抱く力が強くなる。 「山中いの」 いつになく厳かな口調に、緊張が伝わった。 「は、はい」 「お前が好きだ」 それが何を意味するのか、わからなかった。ひとつひとつの言葉は聞き取れるのだが、それぞれがうまく繋がらないため、文章が意味をなさない。 「聞こえなかったか。ならば何度でも言うぞ。オレは、山中いのが、好きだ。お前の言うところの、恋愛感情込みというやつだ。これがオレの正直な気持ちだ」 いのはようやく言葉の意味を飲み込むと、かあっと顔を赤らめ、視線を逸らせる。 「……なんで?」 「何故、とは?」 「ちょっと冷静になろう、シノ」 「オレはいつでも冷静だ」 「私のことが好きだって言うけど、ああ、勘違いしないで、それはもちろん嬉しいのよ。でもね、私の側にいたら蟲の声が聞こえなくなる。もちろん術だって使えない。任務だけなら、なんとかなるわ。組まなければいいだけのことだもの。だけど、もし私と一緒に生きていくことを選べば、ある意味油女一族を捨てることにもなるでしょ?」 捨てるだなんて、随分と過激な言葉を使ってしまったが、事実そうなのだから仕方がない。蟲を操ることのできない人間を、油女は決して認めない。 「お願い、そういうことをちゃんと考えて。刹那的な関係で終わらせたいのなら、私じゃなくて、他の人を相手にして。先のない恋愛に興味はないの」 いのはきっぱりとそう言い切る。シノはまた沈黙するだろうか。今度こそ終わりかもしれない。静かに目を瞑った。 「覚えているか?以前、山中は『諦めたくない』と言ったな。花屋で話した時のことだ」 いつものように甘味を食べながら、互いの恋愛観について話したことがあった。シノは一族に流れる血筋を尊び、いのは恋愛における自由を諦めたくないと語った。二人の意見は水と油で、結局交じり合うことはなかった。 「うん、言ったね」 「オレもお前と同じだ。諦めたくないと思った。正確に言えば、諦めることができない。それにもし、油女を捨ててもかまわんと言ったらどうする?」 「シノ!何言ってんの!」 「お前がオレに教えたことだ。たとえ血筋を引いていても、諦めたくないものがある。オレにも、ようやくそれがわかった。もちろん、このままでいいとは考えていない。共存できる方法を、お前と探そうと思う」 黒いレンズの奥で、その瞳は穏やかに微笑んでいた。深く滲んでいた恐怖はそこに欠片もなく、まっすぐにいのを見ていた。この人は、きっと乗り越えたのだ。それどころか、自分の存在意義を根こそぎ奪いかねない女を、その懐に入れようとしている。こっちへ来いと、手を招く。 「困る。そういうの、ホント困る」 ゆるゆると首を振り、いのは俯く。 何をすればいいのかは、もうわかっていた。一緒に居られない。そう言って、もう一度突き放すべきなのだ。二人の間に横たわっている問題は、好きだとか嫌いだとか、そういう次元で解決できるものではない。あまりに大きすぎる不確定要素は、やがて二人の心をやつれさせるだろう。そうしてゆっくりと確実に想いは息絶えるのだ。そうとわかっていながらも、膨れ上がった恋心を理性で焼き殺すこともできず、かといって共に踏み越えるだけの勇気もない。自分はこんなにも愚かだっただろうか。 「不安か?」 こみ上げてくる涙をぐっとこらえ、無言で頷く。 「オレ達は上手くゆくはずだ。なぜなら、お前は花屋の女、オレは蟲に憑かれた男だからだ」 力強く言い切るシノの顔を、そっと見上げる。苦しいほどに巻きつかれた両腕は、いつの間にか緩んでいた。 「花とみつばちは、相性がいいのだろう?」 いつだったか、いの自身が口にした言葉だった。この男と恋に落ちるなど、露とも思わないで。涙腺は、そこでついに崩壊した。 「共存できる方法なんて、どこにもなかったらどうするの」 「それでも、一緒に生きていく」 「蟲の声、聞こえないのに?」 「どうにかなる。いや、違うな。どうにかしてみせる。オレは案外しぶといぞ」 「何それ!答えになってない!」 胸元をどんと叩けば、その手を掴まれた。 「怖がるな。オレと共に生きろ。それとも、このまま離れるか?」 その言葉で、もう何もかもが吹っ飛んだ。離れることなどできやしない。だったら、この人の側で生きていたい。泣き顔でぐしゃぐしゃのまま、思い切り抱きついた。 「離れるのやだ……シノと一緒に居る」 「ああ、そうしろ。それがいい」 2009/07/03
|