花とみつばち



   十四.


「あのねぇ、ちゃんと受付通してもらわないと困るのよ」
 いつぞや世話になった病院の一室を訪れると、扉を開けてはくれたのだが、シノの顔を見るなり顔をしかめて追い払おうとした。サクラは本来、こういった個人的な治療を嫌うタイプだ。身体のメンテナンスを怠る忍びに将来はない。こんなことを続けていれば、いつかシノ自身の首を絞めることになる。それをわかっているが故に、安請け合いはできなかった。
「経過観察と言ったのは、お前の方だ」
「え、耳の調子、また悪いの?」
 気遣わしげに問いかければ、気まずい沈黙が広がる。
「耳じゃないのね。はい、さようなら」
 扉を閉めてシノを追い払おうとするが、シノのサンダルが扉と枠との間に挟まり、ガツンと重い音を立てた。
「困ったときは互いに協力すべきだ。なぜなら、俺たちは仲間だからだ」
「それとこれとは別。受付にちゃんと行きなさい。今日の担当医は優秀だから」
 今度は、すねたように押し黙る。こうなると、てこでも動かないのが厄介だった。
「あーもう!わかったわよ!いい?今回きりだからね!」
 うむ、と素直に頷くと、シノは身体を滑らせて部屋の中に入った。




 山中いのと会わなくなり、それなりの時間が経っていた。やがて蟲の声は戻り、しっくりと身体に馴染むようになった。自分の思う通りに蟲を動かし、任務をこなし、時々散歩をする。何の変哲もない毎日の繰り返し。それは以前と同じはずなのに、何かが物足りなかった。その理由は探るまでもない。いのに明け渡した心の一領域が、そっくり空いたまま埋まらないのだ。それはまるで、パズルの欠けた一ピースのようだった。形を整えて他のものをはめこもうとしても、うまく溶け合ってくれない。違う何かでは代用がきかない。不安定な心は束の間、自分自身を虚ろにし、任務に支障を来たすまでになった。これでは、何のために蟲の声を取り戻したのかわからない。あんなつまらないミスで怪我をするなど、今まで一度もなかったというのに。
 もしや、女の身体に拒絶反応を起こすのだろうか?それは、ふと沸いた疑問だった。試してみる価値はあるかもしれない。治療を終えた今、サクラは机の上で書き物をしている。おそらく、今回の治療履歴を書き留めているのだろう。書き物に集中しているその姿は、実に無防備だ。
「おい、春野。身体を借りるぞ」
「は?え?」
 空いた左手をぐっと引き付け、ためしに腕の中へ収めてみる。
「……やはり聞こえるか」
「いきなり何すんの!」
 ごん、と勢いよく拳を振り下ろされ、身体が沈む。目に火花が散るとはこういうことか。シノは、なるほど、と思いながら体勢を立て直した。
「他意はない。ちょっとした実験だ。だが、ダメだった」
「え?実験?何言ってんの?」
 シノは迷ったが、少し長くなる、と前置きをしてから訥々と語り始めた。
 聴覚の異常を検査してもらった経緯と、蟲の声が聞こえなくなってしまったこと。それは山中いのと接触する時のみ発生すること。それがきっかけでいのを深く傷つけてしまったこと。接触をしばらく避けていたが、詫びるために店へ行くと、いのにもう店へ来るなと告げられたこと。それをきっかけに蟲の声が戻ったが、かえって心身コントロールがうまくいかなくなり、今回の任務で怪我をしたこと。
 サクラは難しい顔をしながら、シノの話を辛抱強く聞いた。そしてそのすべてを聞き届けた後、湯のみを手に取って茶を啜り、ひとしきり唸り倒した。
「それってさ……あー、でもなあ、どうかなあ」
 天井をじっと眺めていたその目をシノに向け、何かを言いかけるが、結局はもごもごと言葉尻を濁し、また首を捻る。
「心当たりがあるのか?」
「うーん、なくもない」
「話してくれ。どんな些細なことでも構わない」
 蟲について門外漢の自分が、果たしてそんな結論を口にしていいものか。サクラは直前まで悩んでいたが、シノの必死さを前にして、ついに折れた。
「そもそも私は蟲についての知識をほとんど持ってないの。だから今から話すことは参考程度に聞いておいて。でね、今置かれてる状態と似ている症例がひとつだけあるのよ。それは一般的に言うと、」
「言うと?」
「恋患い。恋のやまいにおける諸症状」
「恋、か」
「恋です」
 まさか、と言いたげな顔でシノは目を逸らす。明らかに納得していない。それもそうか、とサクラとて思う。しかし、いのと接触する場合のみ異常が起きるという点、そして蟲の声が戻った代わりに心身コントロールが乱れてしまったという点がどうしても気になった。シノ自身のチャクラも今までにない不安定さを感じる。いくつかの理由が絡まりあい、状況を複雑にしているのではないだろうか。
「いのの声が聞こえると、蟲の音が途端にすうっと遠くに行っちゃうんでしょ?」
「ああ、そうだ」
「で、胸は苦しいわ、汗は出るわで、脈も速くなる」
「うむ」
「わりと視野が狭くならない?いのにどうしても目がいっちゃう」
「そう……かもしれん」
「チャクラの乱れは心身の乱れって言うでしょ。それが術に影響するっていうのは、そう珍しい話じゃないし。まあ、そんなの本来あってはいけないことなんだけど、忍びだって人間だからね。すべてを思うままにコントロールするなんていうのは、なかなか……」
 サクラは自らの師に思いを馳せる。随一の医療忍者と謳われる綱手だが、里を空けていた空白の時間がある。心に傷を負い、医療の第一線から退かざるをえなくなったのだ。あれほどの大人物ですら、傷を克服するのに途方もなく長い月日を要した。自らの心身を完璧に制御できる忍びなんて、果たして本当に存在し得るのだろうか?
「いのね、三ヶ月近く里を空けるらしいの。長くて半年って言ってたかな?」
「出発はいつだ」
「そんなの、本人に聞きなさいよ」
 つっけんどんにそう返せば、シノは俯き、押し殺したような声を出す。
「……会わせる顔がない」
 サクラはひときわ冷たい視線をシノに向けると、ぐしゃりと前髪をかき上げて嘆息する。
「あのさ、言っていいかな?」
 すぅっと息を吸い込み、感情のままに一気に吐き出す。
「バッカじゃないの!?あんたねえ、今更何言ってんのよ!一度でもいのの気持ちを考えたことある?惚れた男に会いたくないわけないじゃない!どんだけ辛い思いさせれば気が済むのよ!詫びるつもりで店に行ったらしいけど、どうせ何も言わずに帰ってきたんでしょ?どんな理由があるにせよ、会える距離にいるのに何もしないなんて、誠意がない証拠よ。まあ、いい加減な気持ちであの娘に近づかれるよりはよっぽどマシだけど」
「いい加減ではない!」
 思いがけない大声に、サクラは目を瞠る。こんな声、シノにも出せたのか。
「山中と会わなくなってから、オレの心の中には空洞ができた。その穴に、オレは時々取り込まれてしまう。一瞬とも永遠ともいえない時間だ。気づけばその中に居る。抗おうにも、術がない。挙句、このざまだ」
 己の失態を恥じているのだろう、シノは怪我をした部位を手でさする。
「人を失う、絆を断たれるってのはね、そういうことよ。失った人の形を型抜きしたみたいに、心にぽっかりと穴が空いちゃうの。誰しもそれを抱えて生きていくのよ」
「どうやって生きていけばいい。代用なんてきかんぞ」
「当たり前でしょ。だから、必死になってその人を繋ぎとめておくのよ。その穴はね、失ったその人自身の手じゃないと修復ができないの」
 その人の手をもってしても修復できない事例を、サクラは知っていた。だが、それはあえて口にしなかった。今言うべきことではないからだ。
「情報部に転属されたから、いのを探すならそっちを当たった方がいいわよ」
「……この礼はいつかする。必要なときにオレを呼べ。必ず力になると約束しよう」
 それだけ言うと、シノは蟲と共に消えてしまった。秘術を私用で使うほど追い込まれているということか。失ってみてはじめて焦るなんて滑稽にもほどがある。だが、他人と初めて本気で向き合ったのだろうから、そこは大目に見ておくべきか。助け舟は出したことだし、この後どうなるかは本人の努力次第。
「ほんと、相手がいので良かったわよね。私なら絶対無理だわ」
 木ノ葉病院のカルテに今回の治療履歴を加えるべく、サクラは部屋を出た。








※これは春野さんの話じゃないのですが、いのちゃんの話には不可欠だよなあ、と思って。





2009/06/30