花とみつばち



   十三.


「土産だ」
 久しぶりに聞く、穏やかな声だった。
 仕事の手を休めて振り返ると、シノが包みを片手にぶら下げて立っていた。笹に包まれた中身は、きっと団子だろう。甘栗甘の新作だ。少し前までは甘味に興味などなかったくせに、今やすっかり情報通になっているのが、ちょっと可笑しかった。
「詫びの品にもならないかもしれないが……」
「お詫びって、何の?」
 シラを切るいのに、シノは口ごもる。気まずい別れ方をしたのが、ちょうど二週間前のこと。忘れているはずなどない。だが、いのはあえて素知らぬ振りをした。
「お土産、ありがとね」
 そう言って、いのは包みの底を手で持ち上げる。シノが紐を手放すまで、少し間が空く。何か言いたげな表情を浮かべていたが、結局言葉を発することはなかった。いつもなら椅子に座って一緒に甘味を楽しむところだが、そんな時間はもう二度とやってこないと、いのは知っている。花が並ぶストッカーの中に、包みを一時的に避難させた。せっかくの土産物を腐らせてしまうのはもったいない。
 ストッカーの扉が閉められると、二人の間には密度の濃い沈黙が流れるばかり。それが以前とは全く違う性質のもので、ひどく気詰まりだとわかっていながらも、シノは突破口を見出せずにいた。空いた手をポケットに突っ込み、黙ったまま、動かない。
「シノ」
 少し高めのその声が、その場の重苦しい空気をかき消した。いのは手を伸ばし、シノのサングラスに軽く指を触れる。
「ごめんね、ちょっとの間だけでいいの」
 シノの肩が一瞬強張るが、構うことなくサングラスを外す。いつもは隠された双眸が、いのを見る。この眼が好きだな、と思った。そうか、好きなのか。あれほど悩んでいたというのに、一度納得してしまうと、その想いは確固たる重みをもっていのの心に留まる。その形さえ手でなぞれるようだ。こんな穏やかな恋もあるのだと知ったのが、失恋と同時だなんて。嘆きたくなる気持ちを押さえ、いのは口を開いた。
「私、シノのこと好きよ。もちろん、恋愛感情込みで」
 こんな風に自分から「好きだ」と告げることがあっただろうか?如何にそう言わせるのかを大事にしていた気がする。その気になれば案外さらりと口に出せるものだ。
「でも、シノはダメでしょ?」
 瞳に浮かぶ逡巡を、いのは見逃さない。この人の眼は、物事を雄弁に語ってしまう。だから、常にサングラスで隠しているのかもしれない。
「ほらね、ダメだよ」
 サングラスを折り畳むと、シノのポケットに滑り込ませる。
「ここにはもう来ない方がいいと思う。というか、来て欲しくない。いつまでも引きずっちゃうの、嫌だしさ。お互い、元の距離に戻ろう。ただの同期。ね、そうしよ」
 いのは背を向け、花屋の仕事に戻る。シノの気配が消えるまで、どれほどの時間が流れたのか。それは考えないようにした。シノは言葉を操るのが不得手だ。反論の余地をなくしたのは卑怯だとは思うが、ずるずると引き伸ばしても自分が辛くなるだけ。身勝手だと非難されようとも、傷つくのが嫌なのは誰だって同じだ。
「……ああ、忘れてた」
 ストッカーの中に入れておいた笹の包みが視界に入り、そっと取り出す。最初に土産を手に現れた時のことを、今でもはっきり覚えている。人付き合いに慣れない不器用な男が、警戒心の強い小動物みたいに店の周りをうろうろしていた。招いてやったらあっさり懐き、プリンやら団子やらをもそもそと食べる。実は誰より寂しがりで、人の居るあったかい場所が好き。だから一緒に居てあげたかった。何より、一緒に居たかった。けれどもう、あの人はここに来ない。これが最後の土産。床にぽつりと涙が滲んだ。
「嘘、やだなあ。ちょっともう、ほんと……」
 ほんの小さな頃から店の手伝いをしてきたが、仕事中に泣くのなんて初めてのことだ。配達の途中で道に迷ったせいで店に帰り着くのが夜になった時も。柄の悪い男達に身に覚えのないクレームをつけられた時も。涙を流したところで事態は変わらない。だったら泣いてなんかやるものか。女の涙は、そんなに安くないのだ。
 それが今は、とめどなく流れてくるものを抑え切れない。
 店の片隅で声を殺し、いのは泣いた。




 火影室に呼ばれたのは、それから数日後のことだった。
「情報部に転属、ですか」
 いのを待っていたのは、情報部の森乃イビキと、忙しそうに手を動かす五代目火影の姿だった。何も降って湧いた話というわけではない。そもそも山中の能力は密偵に適しているし、情報部に属している一族の人間は多い。父親のいのいちは情報部の腕利きとして名が通っており、いの自身、情報部の仕事を手伝うことがしばしばあった。そのため、イビキとも仕事を通して面識がある。
「ああ、そうだ。お前は得がたい人材だ。医療と諜報、どちらも精通している忍びを探そうとしても、まずいないだろう」
 諜報活動は、握った情報を持ち帰ってこそ意味がある。その一方で、任務失敗時における生還率は低い。手傷を負って動けなくなった諜報員は、身元を探られることを避けて自害をする。それが理由だ。
 そこに医療スキルを持った忍びを投入すれば、深手を負った諜報員の傷を癒し、揃って生還することができる。すると必然的に生還率の低い任務を請け負うことになるが、いのにならばそれが可能だと火影が判断したのだろう。
「ちょっとばかり厄介な任務があってね、着任して最初の三ヶ月は里を離れて諜報活動をしてもらうことになる。期間が延びることも念頭に置いて欲しい」
 大きく「S」と書かれた紙をひらひらと振って、五代目が言う。きっとその「厄介な任務」が絡んだ書類だろう。
「引き受けてくれるか?」
 これほど深い信頼の証を示されて、首を縦に振らない忍びがこの里に果たしているだろうか。
「謹んでお受けいたします」








2009/06/24