花とみつばち



   十二.


 自発的にこの場所へ足を運ぶことになるなんて、思いもよらなかった。
 「木ノ葉病院」と彫られた門柱の前でしばし立ち止まった後、シノは重い足取りで病院の敷地内に足を踏み入れる。受付を素通りし、病棟を突っ切り、足はさらに奥へ。木ノ葉病院は一般人・忍びを問わず患者を治療する医療機関であるが、研究施設の一面も持っている。綱手が五代目火影に就任してからは、さらに設備投資が増やされ、医療忍者を養成するための施設が新設された。
 今回シノが訪れたのは一般病棟ではなく、比較的新しい区画だった。春野というネームタグが差し込まれた扉を前に、ノックを二回。
「はい、どうぞー」
「邪魔するぞ」
 扉を開けると、机に向かっている部屋主の後姿が見えた。ひとつに括られた桃色の髪が、その背を流れている。
「病院嫌いがわざわざ訪ねてくるんだから、よっぽどのことよね?」
 座っている椅子を真後ろに回転させながら、サクラが言う。シノの顔をちらりと見た後、どうぞ、と椅子を勧めた。シノは勧められるまま、丸椅子に腰掛ける。五分ほど問診を受けた後、検査をいくつかすることになったが、よほど嫌そうに見えたのだろう、痛いことはしないからとサクラに念を押された。
「んー、聴力に異常はなし。鼓膜も綺麗なものね。ストレスによる一過性のものってことも考えられるけど、今のとこ数値に出てないからなあ。聴力に異常が出たのって、最近のことなんだよね?」
「三週間前に一度きり。任務に支障はない。単なる疲労だろう。騒がせてすまなかった」
「そんなのはいいんだけどさ、もしまた耳がおかしいって思ったら、すぐに来ること。経過を見ていくから、油断しないようにね」
 サクラは真剣な顔で言い含める。忍びの耳は多くの情報を捉え、分析する。それが機能不全を起こせば、すぐさま死へと直結するだろう。放っておいていいはずはない。
「そうさせてもらう」
 心なし、くたびれた声だった。
「お茶屋での情報、役に立ってる?」
 部屋に入ってきた時からシノの表情は暗く、悩みでもあるかように鬱々としている。間違っても、いのと出かけた日のことを聞ける空気ではない。それでもこの話題を口にしたのは、あの日に繋がる話題を出して、少しでもシノの気を紛らせたいと思ったのだ。
「あの時の情報、十分役に立った。感謝する」
 そう答えるシノの声は、むしろ一段と沈んでしまったように思える。どうやら、思惑は失敗に終わったらしい。
 診療の礼を言って丸椅子から腰を上げると、シノは足早に部屋を去ろうとする。サクラは気の利いた言葉をかけようと頭を巡らすが、気をつけて、としか言うことができなかった。様子がおかしいことはわかっている。なのに、言葉が出てこない。こういう時に助けてくれるのは、いつだっていのだった。まごついている周囲を他所にスッと出てきて、さりげない一言を差し出し、相手の心をほぐしてしまう。
 シノといのの間に何かが始まろうという今、違和感を覚えていながら何もできない。昔から、下手なままだ。何一つ変わっていない。
「ホント、ダメだなあ……」
 シノの居なくなった部屋の中、天を仰ぎ、息を吐いた。




 暗鬱な表情で病院を後にし、実家への帰路につく。
 そもそも聴覚に異常があるのであれば、蟲の声だけではなく外界の音一切が遮断されるはずだ。それをわかっていながら、一縷の望みを託して病院を訪れた。結果はシロ。状況は逆に悪くなったと言っていい。わかったことはひとつだけ。これは結局、蟲と自分自身の問題なのだということだ。
 いつもなら右に折れるところを直進し、大きく迂回する。意図的に、やまなか花店を避けたのだ。蟲達が、山中一族の能力を恐れたのだろうか?いや、そんなことに怯むような奴らではない。オレの分身となり、どんな逆境をも切り拓いてくれる頼もしい存在だ。
 浮かれていたのかもしれない。通いつめた花屋の店先は、とても心地の良い空間だった。蟲の声がざわめく森の中と同じくらい、大事な場所になった。惹かれるがままに近づき、心の一領域を明け渡すまでになった。蟲を近寄らせないその領域は徐々に拡大し、己の身体を侵食していく。己のすべては、蟲達に与えたはずなのに。
「シノ!」
 その声を聞くなり、体中の血液が一気に沸いた。みぞおちの辺りがぎゅっと縮み上がり、心音がけたたましく鳴り響く。
「ぐうぜーん。ちょうど配達から帰ったとこでさ、一緒にお昼でもどお?」
 会いたいけれど、会いたくない。こんな複雑な気持ちを抱えたまま、いのと接触したくなかった。そのために花屋を避けたというのに、配達帰りとはツイていない。
「あれ、表情硬いよ?なんかあった?」
「いや、何も……」
 搾り出した声は、震えていた。まただ、またはじまる。蟲達のざわめきが遠ざかっていく。やめろ、消えてくれるな。シノは必死で声を繋ぎとめようとする。だが、そんなシノをあざ笑うかのように、蟲達の声は小さくなっていくばかりだ。蟲と対話できてこその蟲使い。その術を失くしてしまえば、塵芥の如き存在へと堕ちるまで。自分の存在意義が消えることに等しい。
「やっぱりおかしいって。顔色も悪いし」
 いのは無造作に距離を詰める。すると、シノの呼びかけに応じる蟲の数が急激に減少した。額へ伸ばされた手は、蟲使いの本能的な恐怖を容赦なく揺り起こす。
 目の前に立つ女が、心底恐ろしい。
 シノはかつてない恐怖に体中を縛られ、錯乱状態に陥った。心拍が荒く、胸が苦しい。そもそも宿主が動揺すれば、それは波紋のように蟲達へと伝わり、蟲のざわめきは大きくなるはずだ。そんな当たり前のことすら起こらない。かぼそい細波は、すべての蟲達へ伝わることなく収縮し、沈黙に変わる。声が、またひとつ消えた。
 パシン、と乾いた音が、シノを現実に呼び戻す。
 はっと我に返ると、いのの右手が不自然な位置にあった。そしてシノの左手には、何かを叩いた時の衝撃がじんじんと残っている。
 オレは、一体、何をした?
「ごめん!ちょっと距離が近すぎたね。もうしないからさ」
 呆けているシノを他所に、いのは、ぱちんと目の前で手のひらを合わせた。そしてぎゅっと眼を瞑り、すまなそうに顔を俯ける。
 そうだ。伸ばされたその手を、オレは払いのけたのだ。




「結構効いたなー」
 明るい声を出してみるが、心がそれで浮上するわけもなく。
 謝罪をした後、シノは逃げるように去ってしまった。手を払われたことには、もちろん驚いた。だが、それ以上にいのの心を締め付けるのは、シノが自分の扱いを持て余していることだった。シノの顔に浮かぶ表情。あれは嫌悪の類ではない。おそらく恐怖だろう。
 いのにとって恋愛とは、自由意志の発露だった。そもそも忍びの生き方に、選択はそう多くない。忍びになる・ならないという大きな選択をしてしまえば、生き方は自然限られる。任務に必要なのは「意志」ではなく「判断」であり、火影の命令は絶対となる。そんな中、自由気ままにできるのは、恋愛だ。幸い山中一族は血継限界ではなかったし、家畜の種付けのような婚姻を迫られずとも生きていけた。ならば、それを謳歌しない手はない。
 周囲にどう思われようとも、自分のやりたいことをやるのが常だった。相手が憧れのサスケだとしても、いのの行動は変わらない。自分をアピールしなくて、何が恋か。それは、山中いのを構成する大切な一要素だった。頼るべきひとつの指針とも言える。
 それが今、揺らぎはじめている。次に顔を会わせる時、どんな顔をしていいのかわからない。そもそも今まで自分は、どんな顔をして彼と会っていたのだろうか。
「なんなのよ、これ」
 名前もわからぬ感情は、知らない自分を暴き立て、自身の根幹を激しく揺さぶる。視界がぐにゃりと歪み、いのはその場にしゃがみこんだ。








※ファンブックを一通り読んでみたんですが、病院の見取り図が見当たらず、適当にでっちあげました。アニメのおまけでシノの身体検査を春野さんが担当してたので、こういうのもありかと。五代目の秘蔵っ子ですから、将来的には部屋のひとつぐらい与えられることでしょう。




2009/06/16