花とみつばち



   十.


 火曜日の午後、甘栗甘の前に14時集合。そう指定をされていたが、不測の事態に備えて時間より早めに行くことにした。春野サクラへの調査は有意義なものに終わり、幸い足を運ぶ場所には困らない。店先の長椅子に腰掛け、シノは今日の予習をしようと手帳を開く。
「あれ?なんか早くない?」
 ルートを地図で確認していると、手元にちらりと影が落ちた。顔を上げるが、見慣れた忍服ではなかったため、それがいのだと気づくまで少し間が空く。待ち合わせまでだいぶ時間があった。いきなり不測の事態だ。
「……お互いにな」
「私は、ついでにお昼ごはん食べようと思ってさ」
 昼時に行く店なら、いくつか頭に入れてあった。飯処は当たりはずれがあるらしいので、春野サクラに味を保証されている店に行くことにした。手帳を仕舞うと、団子一本分の小銭を置いて立ち上がる。
「シノ?どしたの?」
「飯を食いに行くのだろう?」
 いのは驚いた顔を見せたが、素直に後を付いてきた。甘栗甘から歩いてすぐの距離にある飯処なのだが、いのはちょうどそこへ行くつもりだったらしく、奇遇ねぇ、と言って笑った。滑り出しに不安を覚えるも、新鮮な野菜が評判だというその店の料理は予想以上に美味で、口数は少しずつ増えていく。いのも楽しんでいる様子だった。すべてが予定通りに進む中、問題が起こったのは、さまざまな国から取り寄せたお茶葉を取り扱う店に行った時のことだ。茶葉の会計をしているいのを待つ間、次に行く店の場所を確認しておこうとシノは手帳を探った。
 ……ない。つうっと額を嫌な汗が伝った。
「探しているのって、これ?」
 凍った身体でぎこちなく振り返る。なんと、探していた手帳が目の前にあるではないか。店内で落としたとは考えにくい。シノは慣れない街中へ出ると、気の緩め方と締め方がわからなくなる。その隙を突かれて奪われたというのが妥当な線か。まだまだ修行が足りない。
「返して欲しかったら、私の言うことをひとつ聞くこと」
 顔の真横に手帳を掲げ、いのは交換条件を突き出した。女は物欲が旺盛なのだと伝え聞く。何かを買って欲しいとか、そういう類のことだろうか。財布の中身なら、結構ある。金をつぎ込む趣味がないので、貯まる一方だった。土地だの家だのと言われない限りは大丈夫に違いない。
「いいだろう。何でも聞いてやる」
 ちなみに、土地や家より高い装飾品がこの世には存在するのだと、シノはこの時知る由もない。金なんぞあればあるだけ使うものだ、というのは五代目の言。
「シノがいつも行ってるところに行きたいなぁ〜なんて」
「いつも?」
「そう、いつも」
 いつも行っている場所など、数えるまでもなく片手で足りる。修行用の演習場と実家を往復する毎日だ。そもそも「行く」のだから、生活の拠点となっている実家は外す。となると、選択肢はひとつしかない。
「……組み手でもしたいのか?」
「演習場じゃないって。シノの趣味は?」
「虫の観察」
「採集もするんだよね」
「もちろんだ」
「じゃ、そういうことで」
「そういうこと?」
「これから昆虫採集しに行こうって言ってんの」
 いのの思考は、読めないどころか常に予想外のところにある。人との対話を楽しむことが困難な身の上なため、誰かと比べることはできないが、この女の側に居ると気分が良い。実家近くの森へと足を進める理由は、手帳を返してもらうためだけではないはずだ。そのことだけは、よくわかった。




「うっわ珍しい!自生してるの初めて見た!」
 希少な花なのだろうか、いのは歓声をあげると、しゃがみこんで観察をはじめる。どうやら、土の性質を調べているようだった。季節は夏に入る頃合いで、陽が落ちるまで時間がある。あともう一時間くらいは、森の中を歩き回れるだろう。
「自然に咲いてるのをみると、やっぱり感動するよねー。植物園のと全然違う!」
 木ノ葉の土地は広大だ。四季がある故、育つ植物にも幅がある。薬学が盛んなのは、きっとそのせいだろう。無論人材ありきだが、薬草の豊富さに寄る所も大きい。
「シノはきっと虫の多そうなとこに行くんだろうなと思ってさ。虫がいるところに植物はつきものってね。でも想像以上だった。こりゃ凄いわ」
 ぐるりと森の中に目を巡らし、いのは感嘆の息を吐く。その眼が何かを捕らえ、中空に留まった。視線の先にはみつばちが一匹飛んでいた。まるで花の蜜に吸い寄せられるように、みつばちはいのの身体へ近寄ってくる。
「近くに巣があるのかな」
 避けるでもなく、そこにいるのが当然、という佇まいだった。たとえ毒を持たなくとも、蜂が飛んでいるのを見ると男も女もむやみやたらに騒ぎ立てる。シノはそんな様子を遠巻きに眺めながら、ずいぶんと嫌われたものだ、と心を痛めるのが常だった。
「怖くないのだな」
「ん?ちっちゃい頃は普通に刺されるのが怖かったよ?チョウジとシカマルに頼んで追い払ってもらってたもの」
 みつばちはひとしきり飛び回った後、すうっと離れていく。
「でもね、いつだったかなぁ、お父さんに言われたんだよね。虫がいなければ、花は生きていけない。そう邪険にするものじゃないよって。私、花に囲まれて育ったからさ、花のない生活なんて考えられないし、それは嫌だなって思ったんだよね。それ以来、どんな虫も嫌わないって心に決めてる。あ、蚊だけは別。痒いのやだ」
 顔をわずかに顰めて、いのは手を振る。その様子があまりにも嫌そうで、シノはふっと口元を緩めた。
「そもそもさ、花とみつばちは相性がいいんだよ。相思相愛ってやつ?」
「相思相愛か」
「うん。花とみつばちっていうか、花と虫が、かな。お互いがいないと、生きていけないの」
 その後は虫を取ったり、目当ての花を見つけに岸壁を目指したり。拓けた場所から見える里の夕景は、見たこともない場所に映った。シノは確信する。里への帰還が困難になった時、きっとこの景色を思い出すだろう。オレは絶対にあの場所へ戻るのだと、心を強く持てるだろう。そして、隣に居る女の元へと帰るのだ。
「陽が沈みきる前に戻ろう。忍びらしく帰りはちゃっちゃと行きますか!」
「異論はない」
 五分丈の細身パンツにスニーカーという足元のため、いのは身軽だ。忍びの足なら、十分もあれば森を抜けられる。時間の流れが早く、それが惜しい。少しばかり気分が高揚していることから、自分は楽しんでいるのだと結論付ける。先ほどの見解は訂正しなければならない。この女の側に居ると、とても楽しいのだ。それを理解した途端、蟲の声が電波状況の悪いラジオのようにブツブツと途切れ、遠くなる。このままでは、拾えるはずの声まで取りこぼしてしまう。疲労による一過性のものか、あるいは聴覚の異常か。焦ったシノは足を滑らせ、落下寸前のところをいのに助けられた。腕を捕まれた瞬間、全身を包む蟲の声が、さっと消えた。


 いのを家へ送り届けるまでの間、どういう道筋を辿り、何の話をしたのかサッパリ覚えていなかった。動揺を押し殺し、任務時のような鉄面皮を顔に張り付けた。
「今日一緒に採った虫、大事にしてね」
「ああ、任せろ」
 声をなんとか絞り出し、別れの言葉を告げる。
 その去り際、いのが笑っていたことだけが救いだった。








※ゲーム(ナルアク2)にて、希少な花を摘むかどうかの選択肢があって、それを摘まずに里へ帰るといのちゃんが「えらい!」とベタ褒めをしてくれる、というエピソードがありました。この娘は、花にまつわるすべてを愛してるんでしょうね。思えば、これがシノいのという捏造カプのルーツかもしれない。寡黙男と勝気な娘という組み合わせがド真ん中というのもあるけどさ。
ちなみに、この話の前半部分を友人に話したところ、「シノがキモい」と指摘されました。だが、手直しはしない。





2009/06/02