恋なんてしたことがない



恋なんてしたことがない




「あっ!爪にヒビ入ってる!うそでしょー」
 いつもより少しだけ遅くなった帰り道。
 任務報告書を提出がてら、受け持ちの生徒を家まで送り届ける途中のことだった。半歩前を進むサクラが素っ頓狂な声を出したかと思えば、小さな細い指を食い入るように見つめ、がっくりとしょげた顔をする。サスケ君に見られたあ、と泣きそうな姿は、恋する女の子そのもので。その様がなんだかとても眩しくて、カカシはふと目を細めた。
「だーいじょうぶ。たとえサスケが見たとしても、それぐらい任務を頑張ってこなしてるんだなって思ってくれるよ」
「任務、ねえ」
 芋掘りに、田んぼの世話に、迷い猫探しに、庭の雑草抜き等々。
 下忍になりたての七班が請け負う任務は、およそ忍の世界とは縁遠いものばかりだ。そんな中で「頑張っている」と評価されたところで嬉しくないのかもしれない。まあ、視野狭窄に陥りがちなサスケが他人の爪まで気にしているとは思えないのだが、それは胸のうちにしまっておく。
「頑張ってる子はね、自然と輝いて見えるものなんですよ」
「嘘くさーい」
「そうやってひねくれないの。先生は素直なサクラが好きだなあ」
「先生に好かれても……ねぇ」
「うわあ、ショック」
「好きな人にそう思われないと、意味、ないもん」
 組んだ両手をうんと前に伸ばして、そんなことを言う。ナルトの恋心は、前途多難だ。こっそりと苦笑する。
「どうせなら、みんなに好かれるサクラちゃんを目指しなさいよ。そしたら、サスケも焦るかもよ?今のままじゃマズい、なんてね」
「……どうせ、今は全然振り向いて貰えませんよ」
 爪のことをまだ引きずっているのだろう、今日のサクラはどこまでも後ろ向きらしい。
「でも、いつかはって、思ってるんでしょ?」
 こくん、小さな頭が頷いた。
「諦めないのは、大事なことだよ」
「なんか、適当に慰められてるみたい」
 唇を尖らせて、サクラはふてくされた声を出す。どうやら、フォローに失敗したようだ。これだから、年頃の子供は扱いが難しい。参ったなあ、とカカシは頭をかく。
「いいもん、別に。わかってもらおうなんて思ってないから」
「そーんな哀しいこと言わないでよ。可愛い教え子には幸せになってもらいたいんだからさ。あ、そうだ。こんなのどお?」
 カカシは、妙案を思いついたとばかりに手を叩く。
「十八になってもお前が一人身だったら、先生んとこ来なさいよ」
 いつものように、冗談!と反発するかと思いきや、サクラの両眼はカカシの片目をじいっと覗き込んでくる。サクラは聡い子だ。何がしかの意図を読み取ろうと頭を巡らせているのだろう。
「ねえ、先生」
「んー?」
「何でまた、十八なの?」
「うーん、なんとなく」



「……せえっ!」
 起こすなよ、せっかくいい気持ちで寝てるのに。
「カカシ先生っ!」
 重い瞼をなんとかこじ開ければ、傍らにうっすらと人影が見えた。
 視界の端に、緑の光が見える。馴染みのあるチャクラが自分の身体に流れてくるのがわかった。思い当たるのは、ただ一人。
「おー、サクラかぁー」
 思いついたまま、口を動かす。サクラだ、と認識したからそう言った。
「ちょっと!何、勝手に死にかけてるんですか!」
 死にかける。その言葉で、カカシは自分の置かれた状況をようやく思い出した。
 任務は無事にこなしたものの、チャクラ切れのカカシに追っ手が奇襲を仕掛けた。起爆札の光を見たのが記憶の最後。察するところ治療の真っ最中のようだが、痛みを感じなかった。こういう時が一番マズいことを、経験上よく知っている。痛いのなんだのと言っていられるうちは、三途の川はまだ遠い。靄がかったサクラの顔は、表情どころか輪郭すらぼやけていて、うまく捉えられなかった。
「先生が死んじゃったら、お嫁の貰い手、居なくなっちゃうじゃない!」
「サクラなら、すぐにいい人見つかるだろ」
 笑い飛ばそうと思うのだが、顔の筋肉が思うとおりに動かない。
「十八になっても一人身だったら自分のところ来いって言ったの、先生でしょ。あの約束、破る気?」
 きっと自分を睨みつけるのが、気配でわかった。
「言ったなあ、そんなこと」
 調子のいい、いつものでたらめ。口ばっかりの戯れだった。そんな他愛もない言葉をサクラは覚えていたらしい。それが、不思議でたまらない。ああ、そうか。サクラのずば抜けた頭脳をもってすれば、今まで自分が取ったすべての言動を記憶していても何らおかしくない。
「知ってる?私、もう十七歳なの。貴重な青春時代を全部修行に費やしたおかげかしらね、いまだに男一人できないわよ!」
「俺、おっさんだよ」
「知ってる」
「その上、ろくでなしだよ」
 ついでに嘘つきで、人でなしで、誰かを本気で愛したことなど一度もない。
「それも知ってる!だらしなくて、遅刻魔で、くだらない本ばっか読んでて、部屋だっていつも汚い!」
「あそ」
 よくわかっていらっしゃる。
 うまく思考が回らない頭で、カカシは感嘆した。肉体治癒は、繊細なチャクラコントロールが必要だと伝え聞く。だというのに、よくもまあぽんぽんと言葉が出てくるものだ。
 サクラの手により多少回復したのだろうか、目の焦点がようやく定まるようになる。自分の左側に膝をつき、必死な形相で脇腹に手を当てているサクラの顔がよく見えた。元から素材は良かったし、将来いい女になるだろうな、などと思ったことが何度かある。幼かったはずの面差しは、とっくに大人の女のそれになっていた。視線を下に向ければ、華奢だった身体は丸みを帯び、両腕で包めば、さぞや抱き心地が良いだろうと想像ができた。
 いつか、この娘も「女」になる。
 わかっていたことだし、それが当然。だが、それは遠い未来のはずだった。永遠にも思えるほど、途方もなく先のことだと勝手に思い込んでいた。
「サクラ、さ」
「何」
 カカシの意識を留めておこうと思っているだろう。下らない話にもいちいち反応を返してくれることが嬉しかった。可愛い女だ。身体の自由が効いたら、もしかして押し倒していたかもしれない。人を愛しむ心を知らない男が、手塩にかけて育てた元教え子を。なんて滑稽な姿だろう。
「おっきくなったねぇ」
「そりゃなるわよ!あれから何年経ってると思ってんの!よし、血は止まった!服、破くわよ!」
 あの怪力はどこから来るのだろうと不思議に思うほど細い腕が、カカシのベストを強引に剥ぐ。続いてアンダーシャツを引き裂くと、上半身はすっかり裸だ。
「大胆だなあ、サクラは。いくら俺でも、こんな時に勃たないよ」
「うっさい!それ以上言うな!あーもう、なんでこんな怪我すんのよ、上忍のくせに」
 苛立たしい声で文句を垂れ流しながら、サクラは腰のポーチから包帯を取り出す。
「サクラがいるからかなあ」
「なにそれ」
「部隊にサクラがいれば、なんだって治してくれるでしょ?」
「……バカ言わないでよ。単なる手抜きじゃない、それ」
 荒立っていたサクラの声が、ようやく静まる。呆れ果てたのだろうか。そりゃそうだろう。医療忍術とて、万能ではない。いくら優秀な医療忍者でも、限界は存在する。サクラの師匠にあたる伝説の三忍、綱手の力をもってしても、手を施しようがない症例があるのだ。
「もう二度と、先生と一緒の任務に就かない」
「それはわかんないよ。編成は俺らが決めることじゃないし」
「師匠に頭下げて、先生と金輪際関わりを持たないように、頼み込んでやる」
「やだよ、俺」
 思った以上に、情けない声がこぼれ出た。意思も何もあったものじゃない。勝手に口が開いたのだ。
「もう決めたから、無理」
「治してもらうんなら、サクラがいい」
「おあいにく様。木ノ葉では優秀な医療忍者が育ってますからね、私じゃなくても……」
「じゃあ、忍やめる」
「はあ!?」
 さすがのサクラもこの言葉には動揺をしたようだ。チャクラがわずかに乱れる。それでもすぐに立て直すのは、サクラが優秀な証拠だろう。呆れ顔をぼんやり眺めながら、カカシは思う。身体を触れられるなら、サクラがいい。他の医療忍者の治療を拒否してそのまま野垂れ死んだって構うものか。血を浴びすぎたこの身には、ふさわしい最期だ。
 だが、そんな最期を嘆いてくれる女が居るのなら。馬鹿だと罵ってくれる女が居てくれるなら。
「やめるよ、忍者。すっぱりと。その後は気楽な隠居生活だ」
「じゃあ、この先どうやって食べてくの。子供ができたら、とか考えないわけ?」
「金を使うことに興味ないから、結構蓄えあるの、俺。今までの貯金でなんとかなるよ」
「甘い!甘すぎ!そういう行き当たりばったりの人生設計って嫌いなのよね、はっきり言って」
 ばっさりとカカシの意見を切り捨てると、包帯の端をぐっと口で銜え、処置を施したばかりの腹に捲いていく。戦場にいてもなお、その手は美しく、手際のよさにただただ見惚れた。
 ……うん?惚れたか、俺は。
 胸のうちで、そうひとりごちる。「惚れる」という感覚が、いまだによくわからないというのに。大事なたった一人の女という存在に、どうもピンとこない。その手の感情が、希薄なのだろうと思う。来るもの拒まず、去るもの追わず。そんな姿勢で今の今まで生きてきた。つまり薄情な人間なのだ、自分は。
 だが、サクラは違う。情に厚く、涙もろい。「一生愛の人生よ!」と豪語していたこの元教え子は、その胸にたらふく抱えているのだろう。恋やら愛やら、そういった類の感情を。
「とりあえず、里に帰ったらさ」
 サクラは治療の手を緩めず、視線だけで続きを促す。
「恋ってやつがどんなもんなのか、俺に教えてくれないかな?」






※春野さんが十代後半の場合、カカサクは大アリです。



2007/10/23