愛ではなく、さりとて、



愛ではなく、さりとて、




 通い慣れているとは到底言い難い家の前。
 松本は、一向に止むことのない雨の中、傘で顔を隠した格好のまま立ち尽くしていた。


 志波海燕の妻、志波都が亡くなったと十番隊に一報が入ったのは、今日の昼過ぎだった。何かの間違いだと、その報告を信じることができない松本に、隊長の日番谷は強い目で「受け入れろ」と一言告げた。それがどれほど困難であるかを知っている上での言葉だった。そんな日番谷を前にして、松本は失いつつある自我を取り戻し、こくりとひとつ頷いた。
 そして夜になった今、松本は志波邸の前に居る。出撃は丑の刻を過ぎての時間になると伝え聞いた。だから、待機中の海燕は十三番隊の隊舎で敵討ちまでの時間を過ごしているのだろう。しかしその一方、もしかしたらと思い、松本は雨粒の降りしきる中、ここまで足を運んでしまったのだ。
 会ってどうする?と思う。だが、会わなければならない、とも同時に思う。居て欲しいけれど、居なくたって構いやしない。そんな複雑な胸中を振り切って、木の扉を叩こうと手を持ち上げる。だが、扉は松本が触れる前にがらりと開いた。
「よお、やっぱりお前か」
「海燕さん……」
 あらかじめ用意していた言葉は雨粒と共に地中へと沈み、松本は驚きに包まれる。突然扉が開いたことに対してではない。目の前の人物は、いつもと同じ顔だったのだ。もっとギラギラとして濁った瞳が待っていると思っていたのに。
 どうしてこの人は、こうなのだろう。
「まあ、いいから上がれ。外は冷える」
 立ち話で結構だと告げようとすれば、適当に座ってろと言い残して、海燕はさっさと家の中に引っ込んでしまった。迷った挙句、松本は玄関に足を踏み入れる。
「では、お言葉に甘えて……失礼します」
 雪駄を脱ぎ、家の床に足を着けた。
 この家に上がるのは、一体何年ぶりだろう。気が遠くなるほど昔の話だ。
 面を上げると、ちゃぶ台の下に置いてある座布団は、ふたつ。松本はぐっと唇をかみ締めると、ちゃぶ台から少し離れた位置に膝を折り、海燕が来るのを待つ。
「一言、お悔やみの言葉を、と思いまして。無礼を承知でお伺い致しました」
「そういう堅苦しいのはやめにしようや」
 台所から返ってくる海燕の言葉に、松本は口を噤む。
「全部あいつに任せっぱなしだったから、どこに何があるかわかんねぇんだよなあ。茶ぁぐらい出したいんだけどよ」
「どうぞ、お構いなく。すぐに失礼しますので」
 湯のみを二つ持って現れた海燕は、心底すまなそうな顔で、悪いな、と謝罪をする。
 やはり、来るべきではなかった。一人にさせておけばよかったのだ。どうして自分はこんなことしかできないのか。
「やはり、私はお邪魔のようです。このご無礼、どうかご容赦下さいませ」
 腰を上げる乱菊の手を、海燕が掴む。乱暴に置かれた湯のみから、白湯が零れ落ちた。
「いや、正直に言えば、誰かに居て欲しい。この家、広すぎるんだ」
 困った顔は、やはりいつも見慣れた通りのもので。
 ああ、どうしてこの人は。
 松本は観念をして、再び腰を下ろした。
「……ご出立は?」
「子の刻を過ぎたら、隊舎に向かう。聞いているだろうが、隊長とルキアと俺の三人だ。安心しろ、隊長は今日、身体の調子がいいらしい。無理はさせねえ」
 無理をしているのはあなたでしょう?
 口からついて出そうになる言葉を、慌てて喉の奥に押し込む。このままでは何を口に出すかわかったものじゃない。松本は、失礼します、と言いながら湯のみを持ち、白湯を飲み込んだ。静まれ、と自らに念じながら。




「そろそろ、お立ちになられなくても?」
「ああ、そうか。そんな時間か」
 壁に掛けられた和時計を眺めて、海燕がぼんやりと言う。結局、この家に留まった三十分の間、会話らしい会話はなかった。海燕の呟く取りとめのない言葉に相槌を打つだけ。自分の不甲斐なさをこれほど呪ったことはない。何も、言えなかった。
 玄関先で雪駄を履き、裾を整えたところで、一礼をする。そうして玄関を出ようとした刹那。
「都ぉ、ちょっと目ぇ瞑っててくれな」
 天井に向かってそう言うと、海燕は松本を腕の中に収めた。
「えっ、海燕さん……?」
「何もしないから、勘弁」
 まだ下位席官だった頃、二人は幾度もこうして抱き合った。そんな思い出を胸に秘め、松本は強張った体から力を抜く。
「俺にとってさ、お前は大事な女なんだ。元々男女の仲だったってことを置いても、苦楽を共にした仲間っていうのかな。うーん、違う。そんな陳腐なモンじゃねえ。性が違うからこそ、俺の中には不思議な感情があるんだよ。お前に対して。嫁持ちになってからも、それは消えなかったんだ。そして、それは今も感じている」
「私も大事ですよ、海燕さんのこと」
 だから、ここに来たのだ。
 感情の呼び名が見つからない。どんな名前をつけても違和感を覚える。
「でも、俺の心は都のものなんだ。だから、名残惜しいが、その感情を消してしまうことにする」
「はい。私もそれがよろしいかと思います」
「ごめんな」
「あなたが謝ることではありません」
 首を振ると、背中に手を回す。そうすることが、自然だと思った。
「乱菊」
「はい」
「お前と会えてよかった」
「私を見つけて下さって、ありがとうございます」
 海燕が笑う。松本もまた、笑う。
 抱擁が解かれると、するりと松本は海燕から離れていった。




 翌朝、松本は海燕の訃報を聞いた。
 あの人が、逝ってしまった。
 その報を知らせた日番谷は、もう何も言わなかった。
 それでも、笑顔でさよならを言うことが出来たのは、唯一の救いだ。そう、松本は信じた。
  




2007/01/13


back