10.君が笑えば僕も笑うから



10.君が笑えば僕も笑うから




 朝、執務室に向かうと、一枚の手紙が机の上に乗っていた。
 檜佐木修兵様。乱菊の筆跡だった。
 あれ以来、自分は隊長代行として業務に追われ、向こうは日番谷隊長と共に山本総隊長の執務室に篭りきり。すれ違うどころか、顔も合わせることもなかった。好きだ、と乱菊に告げた後、答えは貰えていない。まさかその返事ではないだろうと見当はついたが、それ以外に手紙で知らせることなどあっただろうか。頭を巡らせながら手紙を開けてみれば、こう書いてある。
「亥の刻、いつもの店の前で」
 呑みの誘いなら、直接告げればいいのに。そう思いながら視線を下に移すと、注意書きが記してあった。
「死覇装では来ないこと」


 赤提灯をぶら下げたいつもの店の端に、乱菊は立っていた。
 結い上げた髪に、薄く引かれた紅。艶やかな立ち姿。着流し姿の修兵に気づくと、乱菊は軽く笑った。てっきり店の中に入るのかと思いきや、乱菊は修兵に近づき、店を素通りしてそのまま真っ直ぐ進む。こちらから声を掛けることが、なぜだか躊躇われた。
「いきなり手紙を寄越したりして、悪かったわね」
「いえ、お互い忙しい身の上ですから」
 久々に聞く乱菊の声が、修兵の耳にしっとりと馴染んだ。鈴虫が鳴く夜道を、互いの近況を話しながら歩く。
「あの時、」
 ぽつりぽつり落とすように交される会話が、その言葉によって途切れた。修兵は少し歩を緩め、その続きに耳を澄ませる。
「側に居てくれるって修兵の言葉、ほんと、嬉しかった。涙が出るほど。有難うね」
「いえいえ、随分と偉そうなことを言った覚えがあります」
「ほんとはね、あの馬鹿に言ってやりたいこと、たくさんあるの。そして、陽の当たる道をちゃんと歩かせてやりたい。ギンから貰った命だもの、それがあたしに出来る唯一の恩返しだと思うのね。それこそ引っ叩いてでも連れ戻さないと」
「そうこないと。乱菊さんじゃないっスよ」
 嬉しそうに笑う修兵に、乱菊は眩しいものを見るように目を細める。ふらふらと揺れる互いの手が、ふっと触れた。どちらともなく、握り合う。
「修兵は凄いね。自分だって辛い思いをしてるのに、人に優しくできるなんて」
「凄くなんかないです。あれは、相手が乱菊さんだったからですよ。他人に対して無条件に優しく出来るほど器デカくないですし。あれでも勇気出したんですから。こうしてまた乱菊さんと一緒に歩ける今が、サイコーに幸せです」
「修兵、好きよ」
「……嬉しいです」
 誰かの身代わりでも、寂しさを紛らわす相手でも、修兵は満足だった。乱菊に嫌われることなく、それどころか好きだと言ってくれた。それが今は、素直に嬉しい。乱菊の手をしっかりと握り、幸せを噛み締める。
 それから二人、何を話すでもなく夜の道を歩き続けた。修兵は、どこに行くとも聞かずに、乱菊の隣を並んで歩く。その足が止まったのは、とある建物の前だった。修兵は驚きを隠せない。そこは、男女が逢引をする際に使う店。つまり、人の目を忍んで情事を交すための場所。
「いや、なんていうか……二人とも隊舎に住んでるからさ、行き来も難しいし、こういうところじゃないと、ろくに話もできないっていうか……」
 照れたように、言葉を途切れがちにしながら乱菊が言う。修兵は、まだ呆然としたまま動けない。頭がついていかないのだ。この状況に。
「ごめん、駆け引きは無しにしよう」
 え?とぼやけた声で呟き、隣の乱菊を見る。熱っぽい視線が、修兵を貫いた。
「今日は、修兵に抱かれに来たの」
「乱……菊さん……?」
「言ったでしょう?あたしは、檜佐木修兵に惚れているの。本気で」
 凛とした声に、心を射抜かれた。鈴虫がひときわ高く鳴く。その音にはっと我に帰り、修兵は改めて目の前に立つ乱菊を見た。その顔に寂しげな翳りがかかるのを、修兵は見逃さない。両手で乱菊の頬を包み、そっと撫でる。修兵の存在を確かめるように、乱菊は右の手のひらをそこに重ねた。
「俺は……一体何やってんスかね、つくづく情けねえ……」
 さっきくれたあの言葉は本気だったのだ。埋め合わせでもなく、身代わりでもなく。嬉しいです、なんて馬鹿を言ってる場合じゃなかった。抱きしめて、自分も好きだと告げなくてはいけなかったのだ。
「俺はね、ついさっき乱菊さんが俺に好きだって言ってくれた時、本気で惚れてくれているなんて思いもしなかったんです。あなたの言葉は、奥が深すぎるから。乱菊さんに対して、すげえ失礼なことを考えました。謝ります。ホント、すんません」
「今までが今までだから、文句も言えないわ」
 ふふっと乱菊は眉尻を下げて笑う。手を引くと、乱菊はするりと修兵の腕の中に納まった。堪らずに抱きしめると、首筋に顔を埋める。女の匂いに、くらりと酔いそうになる。
「惚れてるなんてもんじゃないです。乱菊さんの声が聞きたくて、触れたくて仕方ない。居なくなっちまったら発狂しますよ、俺。あなたが居ないと俺は俺でなくなります」
「この数週間、一度も会いにきてくれなかったくせに?」
「とんだ甲斐性なしで、すみません」
「いいのよ。こうして一緒に居られるなら」
 修兵は、腕の力を弱めると、紅を引いた乱菊の唇に口付けた。一瞬触れ合うだけものが、二度、三度と重なるたびにさらに深く、さらに奥へと求め合う。最後に首筋を吸うと、修兵は乱菊の手を取り、店の戸に手をかけた。
「夜は冷えます。中へ」


 通された部屋は、八畳ほどの大きさ。布団が一組と、枕が二つ。左隅には、鏡台と小さな箪笥が置かれている。二本の行灯から漏れるかすかな灯りが、部屋の輪郭を淡くぼやけさせた。一見すれば上品で慎ましやかな佇まいだが、消しきれない淫靡な匂いがそこかしこに貼り付いていた。むせかえるようなその匂いに頭を痺れさせながら、修兵は静かに襖を閉めた。隣の乱菊は、畳の上に足袋を滑らせ、布団の端に辿り着くと、すっと膝を折る。ひとつひとつの仕草が、息を呑むほどに美しい。修兵は、艶麗という言葉の意味を乱菊の中に見出した。
「……修兵?」
 窺うような乱菊の声に、見惚れて動けなくなっていたことに気づく。無言で近づくと、修兵もまた布団の上に胡坐をかいた。斜め横を向いて座っている乱菊の肩に手をやり、引きつける。面を伏せたまま上げようとしない乱菊の恥じらいに、身体がじわりと熱を帯びる。腕に抱えた乱菊を、硝子細工を扱うような手つきで布団の上に倒す。結った髪をほどき、柔肌に触れたが最後、二人は激しく絡み合った。着物の襟元から進入する無骨な手が白い肩を剥き出しにし、そのまま下へ。首に絡みつく細い手は黒髪をかき乱し、濡れた声が畳の上に落ちる。荒い息遣いと、肌が布団に擦れる音。密やかに交される艶言が、襖紙を震わせた。


「俺は長らく忘れてましたよ、こんな気持ち」
 軽く胡坐をかいた足の上に、何も纏っていない乱菊を乗せて、修兵が言う。掛け布団に二人包まって、開けた障子から見える夜の瀞霊廷を眺めていた。
「どんな気持ち?興味あるわ」
「幸福感……っていうのかな。別に感じていないわけじゃなかったんですけどね、今までも。なんたって、俺は乱菊さんと一緒に居られるだけで、」
 修兵は言葉を区切る。乱菊が肩を震わせていたからだ。明らかに、笑っている。
「あ、馬鹿にしてるでしょ。この気持ち、わっかんねぇだろうなぁ」
 首を捻り、ふてくされた顔。そんな修兵の肩に頭を乗せると、乱菊は顎を持ち上げて修兵を見上げる。
「修兵」
「はい?」
「あたしが今夜、どれだけ満たされたかわかる?」
 見せるのは、悪戯な笑み。
「あんたと同じように、あたしもそう感じてるの。惚れた男に抱かれる女の幸せってやつよ」
 胸を疼かせる一言に、乱菊を抱く力を強くする。
「で、私が笑ったのは修兵を馬鹿にしてるわけじゃなくて、ただ、お手軽だなーって思ったから」
「お手軽?」
「そ。だって、一緒に居られればいいんでしょ?となると、こういうとこに来る手間もないわね」
「えっ!ちょっと乱菊さん、そりゃまた酷な……」
 お預けを食らった犬のようなその顔に、乱菊の肩はますます揺れる。あー涙出そう、なんてひとりごちながら。情けない顔をぐっと引き締めると、修兵は真摯な声を乱菊の耳に寄せる。
「俺と一緒に居て下さい。ほんで、いつでも笑ってましょうよ。お互い。この先待ってるのは、きっとかなり過酷な状況だと思います。それでも俺は絶対に乱菊さんの手、離しませんから」
 布団の中、乱菊の手を探り、ぎゅっと握る。
「乱菊さんも、俺の手、掴んでてください」
「……離すわけないでしょ、馬鹿」
 頭をとん、修兵の胸板につけて、乱菊が言う。その言葉を、どれほど求めていたことか。ようやく掴んだこのしなやかな手。これで、何があっても迷わず刀を振れる。
 あなたの笑顔があればこその幸福。
 途方もなく長い道のりを、今腕の中に収めた女と共に歩くことを修兵は誓った。







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