09.嫌われる以上に怖いことなんて



09.嫌われる以上に怖いことなんて




 潰れた吉良を部屋に送り、十番隊の執務室に戻れば、乱菊はソファの上でぼんやりと外を眺めていた。霊圧は消していないのに、こちらに気づくこともない。ソファの上部に肘を置き、半身を捻っているために顎のラインまでしか見えなかったが、物憂げな表情を浮かべていることが窺い知れた。
「吉良、ちゃんと寝かしておきましたよ」
「ん、ありがと」
 振り返ったその顔には、いつもの笑み。一体どれぐらいの「顔」を隠し持っているのだろう。修兵は遣り切れなくなり、そっと顔をうつ伏せた。
「とりあえず、愚痴吐かせて潰しといたから、少しはシャンとするでしょ」
「相変わらず荒治療っスね、乱菊さんは」
 笑いながら、乱菊の隣に腰掛ける。机の上には、大徳利にお猪口が二つ。
「酒、残ってます?」
「あるわよ、とびきりのが」
 にやりと笑うと、修兵のお猪口にそっと酒を注ぐ。
「さっき、狛村隊長と話してきました。あの人、凄いっス。俺なんか、まだ事実として受け止めきれてないのに、隊長の目を覚まさせてやろうって、力強く言われました。ホント、呼びかけることすらできなかったのになあ」
 必死に叫び続ける狛村隊長の言葉は、耳に入っていた。だが、天に昇っていく東仙の姿があまりに非現実的で、唐突過ぎて、見ていることしかできなかった。問いかけたいことは無数にあったはずなのに。
「なっさけね」
 頭をがしがしと掻いて、お猪口の中身をくっと一気に飲み干す。先ほどまでがやがやと騒がしかった十番隊詰め所の周辺だったが、今は窓の外を通り過ぎる者もなく、小鳥のさえずりがよく通り渡った。静かだ。
「何か、話したんスか」
 誰と、とは言わない。
 手酌でお猪口に酒を注ぐと、乱菊は、ぽつりぽつりと言葉を零しはじめる。
「話したといえば、話した。一方的な別れの宣告。ご免な、だって。あの男に振り回されるのはもう慣れたつもりだったけど、なんか、してやられたって感じ。どこに行きたいのか、何をやりたいのか、もうさっぱりよ」
「追いかけなくて、いいんスか」
「追いかけてどうするの?」
 空いた修兵のお猪口に酒を足しながら、乱菊がさらりと言う。
「ここに、また連れ戻す」
「何のために?」
「あなた自身のために」
 その言葉に、乱菊は不意をつかれたような顔をして、隣の修兵を覗き見る。修兵は顔を伏せ、お猪口の小さな口に映る何かをじっと見ていた。
「まさか、このままにする気はないでしょう?」
「連れ戻したところで、謀反の罪は消せやしないわ」
「じゃあ、戦うんですか?」
「そうなるでしょうね」
 心を押し殺した風もなく、実にあっさりとそう言ってのけた。いつもの豪快な呑みっぷりを見せながらも、冷静に。あんたの引き出しは、一体どこまで広いんだ。修兵は気が遠くなりながらも、ぐっと踏みこらえる。
 あの時、光の中へ吸い込まれていく市丸を呆然と見上げていた乱菊の顔が蘇った。ここで引いては終わりだ。あんな魂の抜けた顔を、哀しみに囚われた顔を、もう二度と見たくなかった。そんな顔、させたくなかった。
「連れ戻さないと、ダメっスよ。たとえそれが出来ないとしても……何かしらの決着つけないと、あんた一歩も動けなくなりますよ。心を引きずったまま戦っていた俺にはわかるんだ。必ず、迷いが生じる。刀を振るうその手に、躊躇が生まれる」
「修兵、この話はやめよう。今は呑んで忘れる時よ。ほら、呑みなさい」
 疲れたように笑いながら、大徳利を差し出す。乱菊の堅牢な心の鎧に、ヒビが入りはじめている。これ以上追求すれば、泣くだろうか、怒られるだろうか……嫌われるだろうか。乱菊に嫌われる以上の恐怖は、今の修兵には思いつかない。あの鮮やかな笑いがこちらに向けられなくなるなんて、考えたくもなかった。だが、それでも。
「いいえ、やめません」
「修兵」
 徳利を机に置き、咎めるような重い声。それでも修兵は、言葉を紡ぐことを止めようとしない。
「呑んで忘れてどうするんですか。心に空いたでっけえ穴を無理やり塞ぐような真似して、寂しさ紛らわして。夜な夜なそんなこと繰り返すんですか?俺はそんなの嫌だ。もうご免だ。あんな苦しい思い、して欲しくない……」
 それは治りきらない瘡蓋となって、その身を疼かせるだろう。夜、一人きりで布団に包まっていると、嫌でも思い出す。悪夢となって、心を疲弊させる。
「俺は、そんな乱菊さん見たくないんです」
「修兵、忘れさせてよ……お願いだから……」
 乱菊は切なげな声でそう懇願すると、自らの額に手を伸ばす。笑っているが、笑っていない。これ以上踏み込まないで、と乱菊の心が叫んでいる。
「俺じゃあ、ダメっスか」
 知らず、口に出していた。一生言えるわけもないと、伝える日は来ないだろうと思っていた。その言葉が、唇からするりと落ちる。
「俺が支えますから。その刀で市丸隊長と決着つけられるまで、豪快で奔放で俺を好きなように振り回すいつもの松本乱菊らしく振舞えるように」
 つっと、乱菊の頬に雫が伝った。
「俺が、側に居ますから」
 堪らずにその身を抱きしめ、掠れた声でささやく。ありったけの想いと愛しさを込めて、耳元に語りかける。背中を擦ると、修兵の着ている死覇装の襟を掴んで、子供のように乱菊は泣いた。気づけば西陽が執務室を差し込み、長い一日がもうすぐ終わろうとしている。陽が落ちる前に、この言葉を伝えよう。修兵は、泣き止みかけた乱菊をもう一度しっかりと抱える。
「好きです、乱菊さん」
 そう告げると、乱菊は、また泣いた。







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