05.ひたすらに好きなだけ



05.ひたすらに好きなだけ




 十番隊に書類を届ける途中、何か言い合いをしている気配を感じた。歩を緩めると、九番隊の詰め所の外壁に身を寄せ、足を止める。出歯亀のような真似をするのは気が引けたが、場合によっては違うルートを辿らねばならない。痴話喧嘩だとしたら、こんな往来で全く迷惑な。誰だよ、と思いながら注視すれば、陽に照らされた金色の髪が眩しく目に映る。
 あの横顔、間違いない。松本乱菊だ。
 不愉快そうなしかめ面で、誰かに握られた手首を外そうともがいている。
「またあの人、言い寄られてんのか」
 修兵は、息を吐きながらひとりごちる。
 松本が誰かに口説かれるのは珍しいことではない。仕事はデキるし、腕も立つ上、誰もが羨む美貌の持ち主。だが、今の空気はどうにも不穏だった。松本の腕前だ、相手にねじ伏せられることはなかろうが、しつこい男は嫌われますよ、と相手に助言でもしようかとひょいと身を出した。見えなかった男の顔が露になる。修兵は、まずった、と咄嗟に思った。
 相手の男は、三番隊隊長、市丸ギン。
「松本さーん。隊長が探してましたけどー」
 もうこうなったら腹を括るしかない。隊長とはいえども、違う隊の副隊長にちょっかいを出す権利はないだろう。いかにも空気を読めない男を装い、何食わぬ顔で呼びかければ、松本の顔から仏頂面は消え、ほっとしたような表情に変わる。相手が自分だったから、と自惚れたくなるほどの変わり身の速さだった。
 通りすがりに、ありがとう、と小さく松本が礼を言う。どういたしまして。心中でそう呟き、書類を届けるべく修兵は踵を返す。
「ホンマに探してたん?十番隊の隊長さん」
 何かを探るような声で、市丸に引き止められる。隊長相手に背を向けたままでは失礼だろう。振り返り、その問いかけに対して嘘っぱちの答えをさらりと口にする。
「ええ、探してましたよ。サボり癖ありますから、あの人」
「ふうん、ならええんやけどね」
 納得しているように見えるが、腹の底では何を考えているのやら。学院時代、巨大虚から救ってくれたのは、五番隊の藍染隊長と、市丸副隊長。その市丸は今や三番隊の隊長格となり、隊を纏め上げている。そんな恩人にも近い人物ではあるのだが、読めない人、食えない人、というのが修兵の市丸に対する印象だった。それは至極感覚的なもので、根拠は特にない。仕草や語調、なんとなく聞こえてくる噂がその印象を肉付けていた。
「自分、惚れとるん?」
「はい、何が、でしょうか」
 こういう唐突さが、苦手なのだ。
 試すように、くるくると話題を変えてくる。松本もその点は似ているが、決定的な違いがあった。市丸の言葉には、底冷えするような響きがあるのだ。
「乱菊に惚れとるのかっちゅー話や」
 つまり何か、市丸隊長は松本に惚れているということか。あれだけ強引な真似をするのだ、その見解に間違いはないだろう。そして今、自分に対して松本に惚れているのかと牽制交じりの言葉を掛けている。完全否定するのは、何故だか嫌だった。修兵の中に生まれつつある感情が、曖昧な言葉を作り出す。
「そうですね……その辺はご想像にお任せいたします」
「なんや、いじり甲斐のないやっちゃなあ」
 興味が失せたようで、おもろないわ、と言葉を残し、市丸は去っていった。
 惚れているのか、なんて他人から初めて聞かれた。自分自身にさえ問いかけたことがないというのに。死神になってから、そういう対象で自分の周辺に居る女を見たことがなかった。それでも付き合った女は何人か居るが、いずれも長続きはしなかった。いつだって自分のことだけで手一杯だったから。
 惚れている。惚れていない。
 はじめて突きつけられた言葉が胸をかき乱し、落ち着きを奪っていく。あの人柄に惹かれているのだという自覚はある。だが、それ以上の感情となると、依然として曖昧模糊としたものであり、どちらとも判断はつきかねた。そもそも判断するべき事柄なのだろうか?とあえて疑問に思うことで、修兵はなんとか平静を取り戻し、十番隊の詰め所へ足を向けた。


 十番隊の詰め所へ書類を届けた帰り道、後ろから「しゅーへー」と間延びした声が聞こえた。続いて、バタバタと走る音。声の主は、すぐに知れた。
「ありがと、助けてくれて」
「はあ、何のことスか?」
「まぁた、恍けて」
 松本は笑いながら修兵の脇腹を肘で突く。結構痛い。
「なんか大変そうだなーと思ったから。それだけっスよ」
 市丸の言葉にまだ動揺している修兵は、他意はありません、とばかりに必要以上にあっさりと言い放った。その後、ちらりと松本の様子を窺う。そこには、今まで見たこともない寂しそうな松本の顔があった。
「ふぅん。そっかあ」
 松本はつまらなそうな声を出し、廊下の壁に背を凭れる。言い方が冷たかったからだろうか、修兵は心中で大いに慌てふためくが、喉が強張り、言葉がまるで出てこない。
「嬉しかったんだけどなあ、あたしは。修兵が助けてくれたこと」
 松本の名前を呼んだあの時、一瞬にしてほっとしたような笑顔に変わった。あれは、市丸から解放されたことを喜んでいただけじゃなかったのか。助けたのが俺だったからなのだろうか。そう、自惚れていいのだろうか。
「松本さんじゃなかったら……助けてませんよ、俺」
 その言葉に松本はくるりと表情を変え、修兵との距離を一気に詰める。無防備な修兵の頬に、松本の紅がうっすらと残った。
「ちょっと、松本さん!ここ廊下っスよ!?いや、そういう問題じゃなしに!」
「感謝のしるし!詮索しないとこも気に入った!そんだけ!」
 んじゃねー、と一言残し、身を翻して松本は去っていく。後姿をぼうっと眺めながら、修兵は頬に残る熱い痕に指で触れた。
 詮索しないっていうか、聞けなかっただけですよ。
 助けたかったのは、あなたにはいつでも笑っていて欲しいからですよ。
 違う奴の手に、触れて欲しくなかったからですよ。


 そこでようやく気づく。ああ、そうか。俺、惚れてんのか、あの人に。遠く置き忘れてきた感情が、胸の内にすっぽりと収まり、身体を満たす。頬からじわりと広がる熱が、心地よかった。この先どうなるのか。そんなこと想像もつかない。しかし、自覚してしまったこの気持ちは抑えようがないと修兵は確信していた。今は、熱に浮かされているだけでいい。それだけで、よかった。







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