04.涙をくれるひと



04.涙をくれるひと




 虚の討伐へ向かった九番隊が帰還した。
 各人の死覇装には血糊がべとりと貼り付き、それはさながら死の行軍だった。突如現れた霊圧の大きさに、九番隊第三席、檜佐木修兵は咄嗟に撤退命令を出したが、大虚は修兵を嘲笑うかのように部下を次々と食い殺していった。修兵の手により大虚は退治されたが、幾人かは救護詰所にて四番隊の隊長、卯ノ花烈の手ずから緊急の治療を受け、軽傷で済んだ者はその内ごく僅か。そして修兵は今、治療室の寝台の上で眠り続けていた。


「檜佐木三席は?」
「まだ、眠られたまま意識は……ただ、回復力が非常に高いので、もう心配はいらないというのが卯ノ花隊長のお言葉です」
「そう、わかったわ。ありがとう」
「私は席を外しますが、お見舞いでしたらそのまま居て下さって構いませんから」
 ペコリと頭を下げると、四番隊の隊員は慌しく部屋を後にした。その後ろ姿を見届けると、死覇装を身にまとった見舞人は引き戸を閉めて治療室に入る。寝台の横に置いてある椅子に腰掛けると、重傷を負った後輩の青白い顔に、くっと唇を引き締め、額に浮かんだ汗を持っていた手ぬぐいで拭った。
 うん……と苦しそうに眉根を寄せ、布団の中の手が、何かを探るように動いた。ほっそりとした白い手が、無骨な修兵の手を包む。ここにいるから、と語りかけるように手を擦った。


 それから半刻後、包んだその手の指先が、ピクリと僅かに手のひらを触れる。
 やがて開かれる漆黒の瞳。
「ま、つもと、さん」
 少し掠れた声。ぼんやりと目の焦点が合っていない。見舞人、松本乱菊は手を握ると、
「ここ、四番隊の治療室。安心なさいな。もう少し寝てなさい」
 だが、松本の顔と天井をふらりと交互に見つめた後、修兵は何かを思い出したようにがばりと布団を剥ぎ、上半身を起こした。
「あいつら……八重樫と惟次は!」
 縋るような目で見る修兵に、松本は静かに首を振る。
「みんな……やられたんスか……」
「救護室に居るのはあんたを入れて全部で六人。それ以外は……」
 見る見るうちに、目の前の顔から生気がこそげ落ちていく。そんな修兵を前に残酷な事実を伝えることができず、松本はそこで言葉を濁した。
「なんだ……またやっちまったのかよ……」
 修兵は、パチン、と音を鳴らせて片手で目を覆う。鼻の奥がツンとする。続いて、喉に圧迫感。じわりと目の端から雫が流れそうになる。ふう、と肩で大きく息を吐いてやり過ごそうとするが、それらは一向に鎮まることなく、さらに修兵を押し流そうとその強さを増すのだった。
 松本はそんな修兵を数秒見つめていたが、やがて椅子を立ち上がると寝台の端に腰掛ける。不意に伸びた右手が、修兵の頭を膝に導いた。
「……松本さん?」
「話、聞いたげるから」
 ポン、ポン、とあやすように肩を叩かれる。
 松本のその仕草、優しすぎる声色に堪らなくなり、つう、と透明な雫が伝い落ちた。
「また、守ってやれなかった」
 乱れる声に情けないと思いながらも、修兵は溜まった思いを吐露する。信頼していた部下が、大虚の爪に腸を抉られて絶命していた。可愛がっていた将来性のある部下が、血みどろになりながらも大虚に立ち向かおうとするその様に気づいてはいたが、習得しきれていない中途半端な瞬歩では、庇いきる ことができなかった。最期の瞬間、修兵さん、と悔しそうに言葉を零し、俺を見た。同じじゃないか、あの時と。
「俺ね、九番隊に入ってから、馬鹿みたいに昇進のことばっか考えてた。どんな強い虚が相手だろうが、俺一人で立ち向かえるようになるんだって、強くなりたいって……。そうじゃないと、あの時、蟹沢と青鹿が犠牲になった意味がないんスよ」
 松本は口を挟むことなく、修兵の涙交じりの声に耳を傾けている。
「松本さん、覚えてます?一人で躍起になって仕事してた頃、松本さんが俺んとこ来て言った言葉。『出来ることと出来ないことがあるって、分別つけなさい』って。俺、変わったつもりだったんですよ。もっと周り見て、部下を信頼して仕事を任せて、上とも連携取って。俺は、あんたのこと信じたから。だから変われたって思ってた」
「信じてくれて有難う」
 松本と出会い、周囲を見るようになってから、心の虚ろは徐々に小さくなっていった。三本の爪痕は、強くなるという決意を忘れないための証だと、面を上げて生きてきた。
「でも、全然変わってなかった。また同じことの繰り返しだ。いくら腕上げたところで、また肝心なところでミスった。気づくの、遅すぎた。俺には出来たんだ。異常な霊圧を感じた時点でその場に駆けつけて、あいつらを守ることが」
 松本の気配がすっと近くなる。艶やかな唇が降りてきた。
 涙の筋に、そして三本の爪痕に、柔らかな感触。
「同情っスか」
「違うわよ」
 唇の感触は、途切れることなく修兵の額に、頬に降り注ぐ。その柔らかさに溶けて、巨大化しつつあった心の虚ろがしゅるしゅると小さくなる。今はもっと、この身が押し潰されるほど苦しまなければならないのに。だめだ、流されてしまう。
「あんた、ずっと苦しい思い出を抱えて生きてきたんだね。辛かったね。痛かったね。そんな素振り、これっぽっちも見せないで。優等生な席官の鉄面皮を被って。あんた、変わったんだよ。あたしたち死神は万能じゃない。だから部下の力を借りるし、各々の持つ斬魄刀の能力で補い合う。あんたはそれができるようになった」
 黒髪を撫でる手の仕草が、気持ちいい。
 この人の言葉に流されて、救われて、俺はどこに行くのだろう。松本のされるがままになりながら、修兵はぼんやりと思う。
「部下を亡くす痛みも、守りきれなかった自責の念も、あたしたち上位席官は絶対に忘れちゃいけない。それが麻痺してしまったら、あたしたちは終わりなの。死神は、そうやって存在し続けるの。強くなっていくのよ。だから修兵、」
 こつり、と松本は修兵と額を合わせた。
 息が掛かるほどの距離。ふわりと花のような匂いが修兵を包む。
「どん底まで落ち込んだら、ちゃんといつもの修兵に戻りなさい」
 ああ、くそ、強くなりてぇな。
 この人に頼ってばかりじゃなくて、俺がこの人に頼られるぐらい。
 唐突に、触れたいと思った。その髪に、その頬に、その唇に。だが、理性がそれを押し止め、代わりにシーツをぎゅっと握る。
 芽生え始めた感情に名前はまだなく、松本がくれる暖かな体温に身を委ねた。







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