01.君で僕の世界は変わる



01.君で僕の世界は変わる




 巨大虚に襲われたあの時。大事な同期の無残な最期を、席官クラスの力量などと周囲におだてられて調子に乗っていた自分の愚かさを、一人立ち向かおうにも何の策も見い出せなかった非力さを。どうしたって忘れられるはずもない。忘れてなどならないのだ。


 あれから十年。九番隊に就き、昇進を続ける今も、修兵の心には虚ろが巣食っていた。今朝方も、夢にうなされたばかりだ。内なる獣は昼も夜もなく、唐突に牙をむく。修兵は、今にも乱れそうになる心を強引に押さえつけ、一人、詰め所にて仕事に没頭をしていた。
「失礼しまーす。ねえ、副隊長見なかった?」
 突然掛けられた言葉を前にプツリと集中力が途切れ、面を上げる。すると、十番隊の見知った顔が、開け放たれた襖の前に立っていた。
「今は会議中です。隊長も一緒に」
「あ、そ」
 空いた襖は閉められることなく、相手はどうしよっかなーと一人ごちている。不在を知らせたのだから、さっさと出て行ってはくれないだろうか。東仙隊長が残してくれたあの静かで心地良い空気が、襖の外へと流れていってしまう。そんな不満を抱えながらも、表情を変えることなく相手の存在を視界から消し、修兵は淡々と仕事を進めた。


 九番隊と十番隊は、詰め所が隣り合っている。だから自然と顔を合わす機会も多いのだが、今襖の前に立ち尽くしている松本乱菊という十番隊の上位席官には、どうしても慣れることができなかった。相手との距離が無造作すぎるのだ。他の隊員達に慕われる理由がそこにあることはわかっているが、修兵にはどうしても馴染めない。
 自分の世界を壊されそうで。必死に隠し続けた心の虚ろを暴かれそうで。


「あんたさあ、あたしのこと嫌い?」
「はい?」
 いきなり何を言い出すのか。わけもわからず筆を止めると、松本はずかずかと部屋の中に入ってきた。思いがけず苦手意識が顔に出てしまったか。その手の感情が表面に出にくい性質だと自分では思っていたのだが。修兵は少々怯んだ。
「別に、嫌いなんかじゃないですよ」
「じゃあ、目を合わせてちゃんと挨拶なさいな」
 面を上げて、真向かいに腰掛けた松本の顔を見る。松本は肘に頬杖をつき、じっと修兵の顔を眺めていた。はじめて挨拶を交わした時に見せた笑顔は、どこにもない。
 整った目鼻立ちに、透けそうな金色の髪。着崩した死覇装からは、零れ落ちそうな豊かな胸。修兵とて男だ。色気のある綺麗な女だな、とあの時は思ったものだ。
 だが、そんな思いも、今は遠い。
「こんにちは」
 無表情に、滑舌よく修兵が言えば、
「はい、こんにちは」
 やる気のなさそうな松本の声が返ってくる。何をやりたいんだ、あんたは。
「ご用はお済ですか」
「ううん、これから」
「副隊長はご不在です。言伝なら承りますが」
「そうじゃなくってさ」
 松本は前髪をかきあげると、窓の外へちらりと視線を移す。
 陽に当たると、白い肌がよく映えてみえた。見れば見るほどいい女だが、これ以上近づいて欲しくはなかった。この身にも、心にも。意図の見えない行動に、不安を覚える。
「ま、単刀直入にいくか」
 松本は居住まいを正すと、じっと修兵の顔を覗き込む。
「あんた見てると、ちょっと危なっかしくてさ。いっつも気を張り詰めてて。そういうの疲れない?確かに律を正して、心を乱すことなく仕事をするのが席官の努めだけど、肩の力抜くのも大事よ?」
「……誰かに、例えばうちの隊長や副隊長にそう言えと頼まれたのですか?」
「ううん。私個人の意見」
「じゃあ、このままでいいでしょう。俺は少なくとも、真面目に仕事をしています。あなたに言われるまでもない。東仙隊長には、評価もして頂いています」
 苛々を募らせながら、修兵は松本に反論する。いきなり押しかけてきたと思えば、こんな説教じみたことを。もういいじゃないか。俺を一人にしてくれ。今は仕事に没頭したいのだ。
「でもあんたの場合、何か違うように見えるのよ、私には」
「違う隊の死神にも干渉するんですか?十番隊でしょう、あなたは。しかも俺より上位の席官。そんな暇、どこにあるんですか」
「さっき言ったでしょ。見てらんないって。仕事も手につかないぐらい気になるの。あんたより長く死神やってる身としてはさ、このままダメになっていくのをただ見てるだけってのは忍びないし、気分悪いから」
「俺の何が悪いんすか!因縁つけるだけなら出てって下さいよ!」
 勢いよく席を立ち、出入り口の襖を右手で指差す。何なんだ、この人は。人を馬鹿にするにも限度がある。いじり倒して遊びたいだけなら、他の奴らを相手にして欲しい。修兵は左の拳を強く握り、掴みかかりたくなる衝動をようやくのことで抑えた。
「出来ることと出来ないことがあるって、分別つけなさいってことよ」
 動じることなく、松本は膝に頬杖をついたまま修兵を見上げる。
「学院の首席卒、そりゃ凄い。昇進、大いに結構。だけど、部下を見なさい。周りを見なさい。うちの隊と一緒に現世に行った時、覚えてる?自分一人で何もかも背負ってるような顔しちゃってさ。そりゃあ、上位席官が先頭に立つのは当然よ?でも、連携忘れて一人やりたいことやってたら、部下はついてきゃしないわよ」
 実際、あの時は松本率いる十番隊に救われた。新たに出現した虚に襲われかけた部下を、松本に助けて貰った。そのこと自体には、深く感謝をしている。その旨を伝えようとすれば、不意に、左の頬に手を当てられた。
 引っ掛けられた、三本の傷跡。松本は、そっと、そこに指を置く。
「まだ引っかかってるのね」
「人の過去、覗いたんですか」
 不愉快な声色を抑えることは出来なかった。無神経に古傷を暴き立てるような真似をするとは。何の権利があって人の心に土足で踏み込むのだ。我慢も限界に達し、出て行け、と怒鳴りつけるべく息を吸い込むと、
「違うわよ。恋次からね。一緒に酒飲んでたら、そういう話になって」
 恋次こと阿散井恋次は、古傷となったあの事件で共に戦った三名の後輩の一人だ。
 あの野郎。酔っ払いやがって。
 松本一人に向けられていた怒りは拡散され、途端に怒鳴る気力も消えていった。どさりと椅子に腰を落とすと、修兵は仏頂面で書きかけの書類を見つめる。それは、一昨日に現世へ赴いた際に魂葬をした人数と、それぞれの名前だった。そして次の段に記載されるのは、魂葬を担当した死神の名前。檜佐木修兵。俺、一人か。
「あんた、いい死神になるわよ。大丈夫」
「何言ってんですか。たった今、散々貶めたばかりでしょうが」
 落としたかと思うと、持ち上げたり。松本と話をしていると、呆れるほどペースをかき乱され、飲み込まれそうになる。自分が自分でなくなるような。ぐらぐらと、今まで築き上げてきたものが壊される。修兵は、心の虚ろの所在さえ見失っていた。
「ここの持って行き方さえ間違えなければの話」
 松本は、傷跡の残る頬をぺちぺちと叩く。
 触れた指先は少し冷たく、頭に上がった血がすっと降りていくのを感じた。
「無理に抑え込むと暴発しちゃうってこと。別に取って食われやしないでしょ。あんた、そんな奴には見えないから」
「あなたはまた、そうやって無責任なことを…」
「見込みがない奴に発破掛けたところで、何も変わりゃしないわよ。あんたは変わる。だから平気。あたしね、人を見る目には自信あるのよ」
「もう少し理論的な言葉が欲しいところですが?」
 修兵は息を吐きながら、椅子の背もたれに身体を預ける。
「上位席官を信じなさい。仲間を信じる。そこからはじめてみなさいな。というわけで、お話は以上。ああ、副隊長への伝言はいいわ。また出直すから」
 勝手に話を切り上げると席を立ち、ひらひらと片手を振って松本は部屋を出て行った。閉じられる襖。修兵は一人、呆けた顔で部屋に残された。
「ほんと、何しに来たんだ、あの人…」
 副隊長に用があったはずなのに、なぜだか俺に助言とやらを残して、用件を済ませたら勝手にさっさと部屋を去っていく。俺はついでか?しかし、ついでにしては真面目な顔をしていた。上位席官としての威厳もあった。最初こそ反発したが、最終的には納得させられた。松本がやってきた時の不安や苛々はすでに消え、抱えていた苦手意識がほんの少し緩和されているのを修兵は感じていた。


 置いた筆を持ち直し、修兵は仕事に戻る。
 東仙隊長の残した空気は、廊下へと逃げてしまった。代わりに満たされるのは、松本と言葉を交わした余韻。松本に声を掛けられる前より仕事が捗るようになった理由が、その余韻にあるなど、その時の修兵は気づきもしなかった。







back