「うーん、何か違ぇんだよなあ……」 昼休憩も終わった執務室。 半刻ほど前から、日番谷の唸り声が部屋に響いていた。筆を動かしては書いた文字を穴が開くほどじっと見つめ、溜息をつくと、書面をくしゃり丸めて屑籠へ放り投げる。その繰り返し。 「なんです隊長、恋文ですか?だったら添削して差し上げますけど」 「阿呆。誰が仕事中にそんなもん書くか」 じゃあ、仕事が終わったら書くんですか?と続けたいところだったが、日番谷の顔が思いのほか参っていたので、松本は口を噤んで仕事に戻る。 「おう、松本」 筆を墨に浸したところで、日番谷が右の掌をひらひらと上下させながら副官を呼ぶ。こっちに来い、と言っているのだろう。松本はソファから腰を上げると、日番谷の小さな身体には不釣合いなほど大きな机に歩み寄る。 「なあ、これ見てどう思う?」 日番谷が指を差した先には、一枚の書面が置いてあった。一目見てすぐにわかる。今度席官入りした部下への任官状だ。 「任官状ですね、としか言いようがないんですけど」 「そうじゃなくてよ、なんかいつもと字が違ぇんだよな。こう、なんか足りねえ」 日番谷は腕を組むと、書面を睨みつけてひとしきり唸る。 なるほど、そういうことかと合点した松本は、もう一度書面を見直した。何でもそつなくこなす日番谷は、字も達筆だ。だが、今日は確かに何かが違うような気がする。筆の乗りが悪いというか、威厳に欠けているというか。 「そう言われれば確かに。でも、そういう日もありますよ。明日にしてはいかがですか?」 「明日じゃ間に合わん。今日中に仕上げないとまずいんだよ、これ」 そういえば、明日が任官式だ。早出をしてさっさとやっつけるというのも手だが、日番谷はそういう仕事の仕方を嫌がるだろう。完璧主義なのだ。 「よし、仕方ねえ」 これまた身の丈に不釣合いな革張りの大きな椅子から下りると、日番谷はこう続けた。 「松本。お前が代わりにこれを書け」 「は?あたしがですかぁ!?」 大体、任官状というのは隊長が直々に書いて判を押すものと決まっている。自分の字が気に入らないという理由でどうして副官がその肩代わりをする必要があるのか。そもそも、規律上こんなことが許されるのか? 「ねえ隊長、男と女じゃ筆跡が違いますし、すぐにバレますよ?これ隊長の仕事じゃないですか。まずいですって」 「その隊長が直々に許可してんだ、文句言う奴ぁ居ねぇだろ」 「文句と言いますか、せっかくの任官状が隊長直々の筆ではないと知ったらこれからの士気に関わりますし……」 「その点は、俺がなんとか上手く言う。だから、お前が書け」 何を言っても無駄なようだ。仕方なく席に着くと、どうなっても知りませんよ、と一言口にしてから筆を執る。松本は、日番谷が起こした書面と同じ文字列をつらつらと書き連ねはじめた。そして日番谷は、顎先を指で擦りながら、松本の筆運びを静かに見守っている。 「はい、出来上がりっと」 後は隊長の印を押すのみ。こんなんでいいのかしら、と松本は筆を置きながらひとりごちる。 「うん、いいじゃねぇか。俺のよりずっといい」 これまた随分と上機嫌な声。ひとしきり書面を見つめながら、うん、いい、と繰り返している。そこまで褒めちぎるほど良い字ではないだろう。それどころか、少し癖の残るところがあまり好きになれない。個人的には、もう少し柔らかな字が好きだった。人間性が出てしまうのか、こればかりはどうやっても変わらなかった。良くも悪くも普通の字。それのどこがいいのか、逆に気になって仕方がない。 「これ、そんなにいいですか?自分ではよくわからないんですけど」 「お前、わかんないか」 「ええ、さっぱり」 それどころか、書き終えた今にでも、隊長の手で書いた方がいいのでは?と思っている。自分だったら、たとえどんな文字でも隊長手ずから起こした任官状を手にしたい。そういうものだ。 「全然違う。こう、俺には習得できねぇモンがあるんだよ、お前の字は」 「それは男と女の違いでしょう。それに、私より達筆な方はたくさん居ますよ?七緒に勇音に……あ、一番綺麗なのは卯ノ花隊長ですね、ダントツで。あれは見惚れます」 「そういうんじゃなくてよ……ああ、そうだ。つまるところ、俺はお前の字が好きなんだな」 一人頷きながら納得する日番谷と、予想外の言葉を掛けられて呆気に取られる松本。 ひとしきり呆けた後、松本は悪戯な笑みを口元に浮かべながら日番谷に切り返す。 「……隊長、意外とたらしですね」 「てめ、上官に向かってそういう口の利き方は……」 「あ、手が滑ってせっかく書いた任官状が破れそうに」 「……のやろ。わかったよ。今日は一日お前に頭が上がらん。定時までお前の好きにしろ」 「ご厚意に感謝いたします」 にこりと笑って松本は席を立つ。そして、空いた椅子に日番谷が座ると、 「それでは仕事に励むと致しましょう」 「何だよ、好きにしろって言ったんだぞ?俺は。いつもみたいにふらっと遊びに行かねえのか」 机の引き出しから隊長印を出しながら、日番谷は心底不思議そうな声を出す。 「ええ、ですから好きに仕事をさせて頂きます」 「わっかんねえ。ホントわかんねぇよ、お前の行動は」 「そ、謎が多いんですよ、あたし。その方が一緒に組んでて楽しいでしょ?スリリングというか」 「もういい……」 日番谷は印に朱肉を馴染ませ、松本が先ほど書いた書面にバン、と叩きつけるように印を押す。その様子にくつくつと笑いそうになるのを堪えながら、松本は定位置であるソファに戻って仕事の続きに取り掛かった。 だから言ったでしょう、あなたは「たらし」だと。 臆面もなくあんなことを言われれば、仕事への覇気も上がるというものだ。 将来が末恐ろしい、と思いながら再び筆を執り、隊長が好きだと言う文字を書き連ねた。 2006/11/30
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